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大豆坂街道の松並木の面影が感じられる追分松が目立ちます。
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下の方が草で埋もれており分かりにくいのですが、追分石には「左:入内、右:往還」「奉納観世音菩薩納経塚」「御國三拾三所 西國三拾三所」、裏には「嘉永六癸丑年三月吉日」など(講中奥崎甚四郎等10人、石工、願主野沢村新山久助等)と刻まれています。
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すぐ近くのバス停も「追分」でした。
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現在の豆坂(ロードヒーティングありw)の坂下付近。豆坂はバイパス開通に伴い交通量は激減しました。
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かつての大豆坂街道はこの辺りから、豆坂という坂を上り豆坂高原(青森空港付近)に出て王余魚沢へと抜けたそうです。よく見ると大豆坂街道の標柱が残っています。
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豆坂の入口には水子地蔵。
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津軽俗説後々拾遺によりますと、大豆坂には「小石を所々に森の如く塚の如く積置たり、夜中に此邊を通れば石を積む音聞ゆと言へり」とあり、その場所を賽の川原と呼んでいるそうで、その旧地蔵堂の跡地でもあります。
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水子地蔵の裏手の山をよく見るとかつての旧豆坂(幅2m、距離600mの坂道)が残っています。
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水子地蔵の左手からまずは右上へと登っていく坂道。
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藩政時代に弘前へと向うメインストリートの一つ。
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私が普段使っている現代地図では普通に豆坂が描かれているのですが、既にかつての道路は自然に還っており、最後まで通行するのは困難な山道のようです。っていうか普通に地図に載っているのが凄い。入口の坂道形状が地図でも細かく描かれています。
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菅江真澄がすみかの山にて次のように語っています。『いま人が行ききする豆が坂は、まむか坂であって、かの津軽大領馬武などが住んでいたのもこの近くであろう。』
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実は豆坂を歩く気満々だったのですが、下調べの際に、豆坂をレポートしている凄いブログ(しかも自転車で通行)を発見し、それを読んだところ…私は絶対に歩いてはいけない道と判断致しました。
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このお方の勇気と栄光を称えたい!笑
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以下、大豆坂通りの沿革等について
名称は慶安2年の津軽領分大道小道磯部路并船路之帳にある高陣場山(標高224.3m、王余魚沢集落の東約1km)から高田集落までを大豆之坂と呼ぶことに由来。元禄7年の御国中道程之図に「大豆坂海道」とあります。弘前藩庁日記では大豆坂通。津軽郡中名字には高陣場の地名があり、北畠氏が浪岡城を根拠とした時代に、浪岡から高陣場山を越えて外ヶ浜に至る道があったと考えられます。『青森県の地名』では鹿角-碇ヶ関-大鰐-平賀-浪岡-王余魚沢-外ヶ浜への文化流入経路があったとします。南部史要によりますと、南部安信の大永4年、津軽三代利右衛門の子主水の反乱があり、外ヶ浜から浪岡にかけて戦場になっています。津軽一統志によりますと天正13年、大浦為信が油川城攻撃の際に、横内城主堤弾正が高陣場で鉄砲で討たれています。また、同年南部信直の将長杭日向が浅瀬石城主千徳大和に宇杭野(黒石市)の戦で敗れ、帰路は「山道は難所切所多くして、行旅心好らざりしかば、今は平陸を外浜へ押通らん」とし、浪岡付近の十川の大萢で多くの人馬を損傷させ、外ヶ浜へ退却。このように「浪岡より高陣場を通り小湊口に至る道路は南部へ至る捷路であり、南部より津軽に入るには多く之を利用」(『津軽諸城の研究』)する道であり、重要な役割を果たすものでした。正保2年の陸奥国津軽郡之絵図では羽州街道の浪岡村から浪岡川にかかる橋を渡ったところから右に分れ、饗沢(王余魚沢)村-高田村-荒川村-浜田村-青森村へ至る道があります。また、荒川村-八役村-新城村と、荒川村-横内村-浜館村へ至る道があります。『津軽領分大道小道磯部路并船路之帳』には大道筋について「小道 一、浪岡村大道ゟ外之浜之内高田村迠三里 此間山道左右木山 此内坂三ツ 一、賀ひ坂登り百廿間 道広壱間 荷付馬自由 一、高陣場坂登り百廿八間 道広一間 右同断 一、大豆之坂下り三百七十八間 道広一間 右同断 右之浪岡ゟ高田村迠ハ霜月ゟ明ル二月迠雪之内馬足不通(中略)小道 一、高田村ゟ荒川村迠拾町 荒川ゟ三内村迠壱里 三内ゟ新城村迠十八町大道ヘ出ル 脇道 荒川村ゟ浜田村迠壱里 浜田ゟ青森村迠廿五町 大道ヘ出ル」とあります。『道程之図』では大豆坂海道として「浪岡村追分ゟ大豆通青森堤町迠六里拾六町弐拾三間」とあり、浪岡村追分-上五本松村-中五本松村-下五本松村-上王余魚沢村-下王余魚沢村-壱野沢村-高田村-上荒川村-中荒川村-八役村-上浜田村-下浜田村-堤村領青森堤町追分と結ばれます。これまで浜田村から青森町へ出ていたのが、浜田村より青森堤町へ変わっています。下五本松村と上王余魚沢村の間で中野村道、大豆ヶ坂の途中で細越村道、高田村と上荒川村の間で細越村道、中荒川村と下荒川村の間で大野村道、八役村と上浜田村の間で横内村道に分かれます。坂は下王余魚沢村から高田村まで、登り小坂12、下り小坂21、登り中坂2、下り中坂3、登り大坂5、下り大坂1、登り山坂1、下り山坂2ヶ所と記されています。なお、一里塚が7ヶ所に記されているもいずれも現存せず。この図と藩政後期とみられる浪岡組絵図では大豆坂通りは高陣場頂上の左側を通っていますが、大正元年測量の「五万分の一の地形図」では右側を通っています。現状は右側。宝暦4年五本松村加茂神社の社司有馬駿河が社家頭小野左門へ宛てた上申書に、「五本松村領之内 右豆ヶ坂道添美人川ト申而先年ゟ杦沢堰中へ流落申候 右古道美人川之流ニ而外堀数多出来仕 人馬往来成兼申候ニ付 右道添ニ先年之荒畑御座候処 此度新道ニ被仰付候」とあり、宝暦頃に五本松村で大豆坂通りが変わっているのがわかります。浪岡から青森へ行くには羽州街道で油川村を経由するより大豆坂通りでは20丁近いです。羽州街道を鯖石の追分より乳井通り、大豆坂通りと結べば青森までは約6000m短縮されます。寛政10年8月17日に九代藩主寧親が弘前から青森へ向かった記録では、弘前を出て目鹿沢村の本陣孫七のところで休憩をし、浪岡村から大豆坂通りに入り、浪岡八幡宮へ参詣(加茂神社には参詣せず)。高陣場山頂の御休所で景色を楽しみ、9月13日に浅虫御湯治、蟹田、平舘、三厩方面と、平内、小湊方面を巡見。これは同9年に外国船がエトロフ、松前、三厩沖に出現し、幕府の命によって松前警備兵を派遣していることから、この年に藩主自らが視察に出かけたもの。大豆坂通りが松前警備にあたって重要視されたことを意味します。寧親の帰路は油川から津軽坂を通りました。明治元年戊辰戦争の際、官軍の函館総監督清水谷公考が函館戦争の難を避けて船で青森に着きました。11月1日宿舎の青森寺町蓮心寺より、高田村に至って昼食、浪岡村玄徳寺に移動しました。この時の官員85人、兵士30名の一行ですが、玄徳寺が羽州街道と大豆坂通りの追分に位置し、高田から向かったとすれば大豆坂通りを利用したものと考えられます。大豆坂通りは函館戦争のために多くの兵士が往来する軍事道路でもあったことがわかります。また、大豆坂通りは郡内四社(五本松村加茂明神、長浜村広瀬宮、田野沢村竜田大明神、野沢村貴船明神)祈祷のための道でもありました。※宝暦10年3月26日「国日記」によりますと弘前から青森へは羽州街道と大豆坂通り以外の脇道の利用を禁じています(米穀の移動阻止)。※菅江真澄は2度大豆坂通りを歩いています。※明治3年に新城-沖館-青森の道がつくられて利用価値が低下。明治30年以後は陸軍利用路。昭和39年に青森空港が完成し、大豆坂通りは現代の道路へと整備されました。にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ