中里城遺跡は古くから「館っこ」「お城っこ」として伝えられてきました…館っこ(笑)
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貞享の絵図(1684年)・陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳(1687年)の記録では「古城」「古館」という記載が既に見られており、少なくとも江戸時代前期には城跡として知られていたと推定できます。
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この台地に最初に痕跡を残したのは縄文時代前期の人々で、動物を狩るための石製の矢じりや、落とし穴が発見されています。平安時代半ばには津軽平野の本格的開拓が始まり、多くの古代集落ができました。中里城遺跡でも集落跡が確認され、集落はおよそ100年間断続したと考えられています。
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詳細は不明ですが平安時代後期になると集落を取り囲む空壕や土塁等の区画施設がつくられるようになります。これを古代防御性集落と呼び、北海道南部や東北地方北部に多く分布しているそうです。
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室町時代には安藤・南部両氏の武力抗争を背景に城として利用されていたと考えられます。数多の伝承は当城の主について新関又二郎、高坂修理、中里半四郎などの名を今に伝えています。
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平安時代の区画集落を復元した史跡公園。竪穴建物跡・柵列跡・井戸跡・空壕跡などが復元整備されています。平成15年に県史跡指定。
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展望台からは眼下に中里の町並みや、津軽平野に浮かぶ岩木山などが望見できます。
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井戸跡と水飲場。
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草木でわかりにくいのですが結構深い空壕跡です。
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構築年代は平安時代後半(11世紀)。全長約130m、上端幅約3.5~5.5m、壕底幅約0.2~0.9m、平場縁辺からの深さ約1.2~3.2mで、断面は逆三角形状。
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集落廃絶前後に人為的に埋戻されていますが、ロクロを用いない土器が多数出土していることから、空壕跡を必要とした時代環境の終焉に伴い、地鎮等の祭祀行為が行われた可能性があるそうです。また空壕跡と連携して平場と取り囲むように柵列跡もあります。
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竪穴建物跡(3号住居)。
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東西約5m×南北約6.3m。平安時代後半。前半と後半では長軸の方角やカマドの有無で違いがあるそうです。平安時代の竪穴住居跡は、80軒あまり発見されていますが、一時期の戸数は10軒程度と考えられています。
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1号住居。
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24号住居。
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27号住居。
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平場中央を南北に並走する空壕と土塁跡。空壕・土塁とも出土遺物から近世以降の構築年代と推定。
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空壕を掘り下げて、その排土を西側に盛って土塁跡を形成しています。
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空壕は全長約30m、上端幅2~3m、床面幅1~1.5m、地山面からの深さ0.2~0.7mで、断面は逆台形状。土塁は全長約46m、下端幅約3m、地山面からの高さ約1.2mで、断面は三角形状。
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裏の遊歩道は草木が伸びて、歩くのは厳しい状況でした。全体の形状を知るには中里町博物館にあったジオラマがとても分かりやすかったですよ。
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