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五十石町標柱。
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弘前市民体育館にあります。
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「慶長16年(1611年)の弘前城完成に伴い、城の西側を守る中級武士の住む町として町割りされました。このときに五十石町と名付けられて以来、変わることなく現在まで使われている町名です。」
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正保3年の津軽弘前城之絵図には侍町と見え、慶安2年の弘前古御絵図には五拾石町と見えます。
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明治16年に城西小学ができ、同19年には城西尋常小学校と改称。
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昭和23年ろう学級が設置されましたが、同25年にろう学級は独立して県立弘前盲ろう学校となって移転。同42年新町の私立第二中学校跡地へ移転して、かつての城西小学校跡地には同46年に市勤労青少年ホーム、同47年に弘前市民体育館が作られました。
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古地図では西堀がなく岩木川として記されています。
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昭和10年の地図では西堀の一角に弘前養魚場と記されています。
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養魚橋という橋もあったようです。
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江戸時代から残っている工藤家住宅。
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枯山水の形式を取り入れた前庭や門構えなどから藩政時代の雰囲気を醸し出します。
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続きまして鷹匠町標柱。
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こちらの標柱は中々見つけにくい場所です。
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「慶長16年(1611年)城下町高岡(現在の弘前)が作られ、この地を鷹匠町と名付けてから今日まで、一度も町名変更のなかった、弘前でも数少ない町の一つで、その名のとおり武士の外に多くの鷹匠が居住したところと伝えられています。」
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馬屋町と二階堰を隔てて接しています。正保3年の津軽弘前城之絵図には鷹師町と見えます。
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明治10年には博習小学が開設されていましたが、明治16年に袋町の自疆小学と合併し、後に五十石町の城西小学となりました。
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