
山門。愛嬌のある仁王様。


開基は推古天皇(554-628)の時代にまで遡ると伝えます。

中国からの帰化僧圓智上人の開基。上人は奥州、現在の東北地方の地を佛法の加護をもって済度することを誓願とし布教・教化し、当時の活動拠点は、津軽阿津摩山とされており、その地に草庵を結び大日如来を御本尊として大日坊と称しましたのが前身。

時代が進み、弘前市の金剛山最勝院を筆頭とする津軽真言五山の隠居寺として定められ、津軽藩より50石以上の寺領を拝受。

津軽真言五山とは最勝院・百澤寺・国上寺・橋雲寺・久渡寺の5つの真言宗寺院。


当時最勝院が京都にある勧修寺の宮より代々僧位権僧正院家の称号を勅許されたことから、常福院もその性格上代々称号を継承。

更に時の藩主の官位が従三位にたいし、正三位であったことから、最勝院と同様、「土踏まずの常福院」としていわれていたそう。


わらべ観音がずらり。


百万遍(万延2年)。

弘法大師。

庚申大青面理助金剛。



祈大日大聖不動明王(鈴木正治先生刻)。

龍神庭。



子安・子育・延命地蔵尊。


大乗居。

金華山より黄金山大権現という龍神様を勧請。神龍黄金山大権現。

黄金山大権現は龍神庭にてお祀りされている龍神様。

造りが細かくて素敵な庭です。



掌不動明王。

横内城主三代提弾正則景(孫六)同室朝日御前(常福尼)夫婦石塔記。

現在の寺の場所が横内城跡(別名提城・鏡城)であり、安養寺常福院の寺号・院号も提氏との関係があるとされており(朝日御前の戒名「常福院殿安養妙貞大禅定尼」)、それ以前は定額寺と称していたそう。

「陸奥の国津軽郡外ヶ浜辺の横内村に、朝日山安養寺常福院という真言の寺ありて、その寺の境内に1つの古墳の跡あり、古い石塔の他、標木もなく、只常盤木のみ1本たてるなりけり。それは昔、此の辺りを領した城主提弾正則景君の妻なる朝日尼君の、御墓の跡と云い伝えたり。そもそも、この尼君をこの寺に葬り給ひし故をたずねるに、天文23年(1554年)6月この尼君の夫、堤氏は、南部九戸の乱にて大浦為則公の弟、紀伊守守信君を大将となし、自分は副将として出陣し、剛勇の名をほしいままにし、数多の敵をほろぼしたれど遂に矢だねもつき、太刀も折れ、馬も疲れはて、その名もかぐわしき桜の庭(秋田県鹿角市)のほとりにて敵の中にわけ入り、やがて嵐のさそう花の如く果て、あわれなり。かくて、この堤君の妻なる朝日君、夫君の討死したまえるをききて、深くなげき悲しみ、堅く操を守りて、やがて愛染明王に救われ、緑の髪をおろし、墨染の衣に身をやつし、この地に草の庵をむすび、朝に夕に花をささげ、香をたき、水を手向つつ弔ひて居りしが、永禄4年(1561年)6月24日に花の匂ひも、きよき白露と共に消えしを、明治28年(1895年)3月9日、当地に石碑を建て、その夫妻の霊を永久の墓標とされている。尚、付記するに、筒井浦町奥野の畑地、現、文化センターの南方畑地に五輪塔一基、半ば土中にうもれて存在し、これこそ鬼孫六と呼ばれし堤孫六の墓石と云われ、当院のこの石碑の裏に移し、初めて一対の石塔となり、寄り添うようにひっそりと並び、コケむして剛勇無双と恐れられた堤弾正の石塔は、あくまでも堂々と、朝日御前の石塔はつつましく、二人の愛の強さを今に伝えている。合掌」


本堂の裏手に回ると空堀らしき遺構が残っており、境内が城郭の面影を残している感じがしますが詳しいことはわかりません。




地蔵堂。

薬師堂。





三福かえる御神体大岩。

龍神池の大改修の際に発見された約5tにもなる蛙の形をした岩。「無事かえる(交通安全)」「若がえる(健康長寿)」「悪運かえる(開運招福)」と縁起がいい蛙岩。

三鈷(三葉)の松。

三鈷(三股)の松。


鐘楼堂(平成15年)。

菅江真澄のすみかの山に「堤孫六、その子禅正左衛門の館のあとに、朝日山安入寺常福院という寺があり、むかし玉清水村からここにうつってきたという。古い阿遮羅尊の前で、自分のふる鈴の音がひびいて、花瓶に八重や一重の桜花をたくさん折ってさし、ぬかずいている法師があった」と記されています。


「朝日山 常福院」HP


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