現在のピクニック広場に門柱が残っています。
緑の相談所の真向かいになります。
この門柱は弘前大学教育学部などが第八師団兵器部の施設を改造して再利用していたことから考えて、第八師団のものかと思われます。
1895年(明治28年)に弘前公園として一般開放されますが、1898年(明治31年)8月三の丸の土地12haは陸軍兵器支廠(第八師団兵器部)となります。
兵部省(後の陸軍省)の管轄となり、戦後(1946年9月)には青森師範学校(弘前大学教育学部)の敷地となり、附属小学校(附属弘前小学校)、附属中学校(青年師範学校附属青年学校)や学生寮なども置かれました。主に植物園の辺り。
弘前大学教育学部校舎は1962年(昭和37年)に全焼します。第1回菊ともみじまつりが開催された年のことでした。
さて、第八師団があった頃に話を戻しますが、火薬庫、兵器庫、被服庫等が建設されていた辺りでは、当然のことながら一般人の出入りが禁じられていました。
弘前市では園路を確保するために東門の北の濠を埋め、土塁も崩し、三の丸への通路を確保したそうです。所謂中央高校口の所でしょう。
賀田門の坂上の土地も濠を埋めて土塁を切って二の丸へ抜ける通路となります。
両側が濠になっているので、一見すると橋に感じますが…
橋じゃないんですねぇ。
ピクニック広場横の土塁の内側には馬場(百十八間)がありました。
馬場。
あまり目立ちませんが馬場横の土塁の上にはアイグロマツ(五本松)。
樹齢320年以上、樹高29m、幹周665cm。アイグロマツとしては全国一位の太さ。
藩日記によると貞享2年(1685)に三の丸土塁に松を植えたとの記述があり、その当時ものと思われます。
この辺りは火薬庫と記されています。
西坂もまだ現存していますね。
下は昭和10年古地図。
追手門を抜けて市民会館(旧野球場)、市民広場、テニスコート付近の広い土地です。
余談ですが、弘前市民会館の場所には昭和8年に仏舎利塔の土が運ばれています。弘前市民会館前の草木はかつての仏舎利塔の土で育ったそうです。
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