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御祭神は倉稲魂命。
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文治5年(1189)、源頼朝が藤原泰衡を滅ぼした際、家臣佐藤庄司基治が当地に移住し、平泉藤原氏全盛時代に平泉七社の内に数えられた稲荷宮と祇園社を館内に勧請し創立したことに始まります。
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仁治元年(1240)、千徳伊探守行重が浅石城主になると佐藤氏はその家臣となり、神社は領内の名社として領内十九社の内に列します。
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慶長2年(1597)、浅石城落城により廃社となりますが、その後、佐藤氏が中心となり神社を再興し、石名坂の産土神として宝永5年(1708)、村中にて社殿が造営されました。
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獅子山タイプの狛犬はこの辺りでは珍しいかも。
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小さいけどよくできています。
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境内にあった石名坂稲荷神社沿革です。
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『当村は今を去る七百六十四年前文治五年六月、奥州藤原氏滅亡の際、家臣佐藤庄司基治は今の岩手県西磐井郡彌榮村石名坂より移住して名付けたるものにして、当稲荷宮は藤原氏全盛時代平泉七社の内に数えられしを、祇園社と共に当舘内に勧請せしに始まる。
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延徳元年には汗石領内十九社の内に列し、慶長二年浅瀬石落城後は部落の氏神として尊崇し、寛永五年九月十日本殿を改築す。此の頃黒石藩公の家臣佐藤兵馬佐藤兵左衛門兄弟が京都伏見稲荷神社より正一位の御神位を拝受し、寛保四年正月十日当宮に奉献せり。
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今年三月十七日黒石藩公佐藤兄弟の熱意に感激して右御神位の額面を自ら染筆して奉納し、文政五年七月十六日、八代藩主親足公は御神体を献納して益々崇敬の誠を現せり。
明治三年稲荷神社と改称し翌四年村社に列し、昭和廿八年二月十一日宗教法人稲荷神社として認證せらる依って茲に其の沿革を記るして後世のために資せんとす。稲荷神社宮司星田彌市撰 八十六翁高山松堂書』
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鈴ではなく鰐口です。神仏混淆の名残りでしょうか。大変美しい音が鳴り響きました。
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もしかしてすぐ隣にある建物は祇園社なのかな。ちなみに境内から下を見下ろすと墓所です。
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更には本殿前にたいそう立派な…
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大黒天様と
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恵比寿様です。
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社殿新築記念碑。
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稲荷神社創建八百年・天皇即位御大典記念碑。その他境内に力石六基あり。
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石名坂館は主郭のみの単郭、もしくは主郭・外郭からなる館であったと考えられており、主郭は250m×150mの方形状で原始時代から縄文時代の遺跡跡でもあったそう。現在は宅地となっており、南は浅瀬石川、北側は豊岡川を天然の堀とした比高30mほどの所にあったそうです。天正13年(1585)、宇杭野合戦で館主近江守正長が討ち死にし廃城になったと伝えられます。
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