ある物が手元にあったのですが、それが何なのかわかりませんでした。『青森県中津軽郡 樂哉園 清水村大字富田 佐藤喜一郎』とあります。博学多才な空白さんにお願いして色々と調べてもらった結果…

「農業雑誌」という本の中に「實驗果園剪定 / 樂哉園主人」・「續實驗果園剪定 / 樂哉園主人」という記事(1900年(明治43年)頃)があることを知りました。農業雑誌は1876年(明治9)1月10日に津田仙が創刊したもの。
参照
『明治時代のリンゴ農家が、病気や害虫にさんざん苦しめられたのは、農薬がなかったというだけでなく、リンゴの木の剪定技術が確立していなかったからでもあった』とあり、りんごの木の剪定にかかわる内容です。

更に『りんごを拓いた人々』斎藤康司著という本に佐藤喜一郎の名前が出てきます。本書は青森県りんご栽培の苦難の歴史を強烈な個性と創造力をもった先覚者・指導者を通して描く物語。西洋渡来のりんごをめぐる一世紀にわたって繰り広げられた壮大な人物ドラマ。
明治初年に全国一斉にりんごの試植が始まり、青森県は明治後期には早くも日本一の産地になり、今日に至るまでその地位を守り続けてきましたが、苦難の歴史であったといいます。
第1話偶然の人生・必然の人生 前田正名/田中芳男
第2話七重の夏 菊池楯衛
第3話化育の道 菊池楯衛
第4話さまざまな品種名 楠美冬次郎/佐野煕/佐藤喜一郎
第5話11人の同盟者 菊池三郎/佐藤弥六/黒滝忠造/津軽薫/中畑清八郎/佐野楽翁
第6話名づけ親たち 大導寺繁禎/芹川得一/佐藤喜一郎/石岡周右衛門
第7話イングと印度 ジョン・イング/菊池群之助/佐藤勝三郎
第8話名称選定争い 津田仙/酒井調良/佐藤喜一郎/佐藤勝三郎/恩田鉄弥/前田正名
第9話中郡清水村界隈 外崎嘉七/楠見冬次郎
第10話ある出会い 笹森儀助/外崎嘉七
第11話神様の真実 三浦道哉/島善鄰/外崎嘉七
第12話去る人闘う人 三浦道哉/西谷順一郎
第13話ロマンの時代 佐藤勝三郎/長谷川誠三/竹内清明/渋川伝蔵/安田元吉
第14話ムラの山をかえせ 白取布次太郎
第15話若き獅子たち 水木淳一/豊島在寛/渋川伝次郎/木村甚弥
第16話山越え海越え 藤本兼太郎/横山慶太郎/大水弥三郎/藤本徹郎/皆川藤吉
第17話自己完成の事業 相馬貞一/佐藤弥作
第18話デリ系の2品種 斉藤義政/対馬竹五郎/

続きましてりんご公園にある『ふじの「準原木」』について。

『昭和15年、当時の農林省園芸試験場東北支場で産声をあげたふじは、今日では、世界のりんご生産量の二割を超えるまでになり、「世界のふじ」に成長を遂げています。
ここに展示の樹は、故・齋藤昌美さん(大正7年~平成3年)が、昭和33年に、ふじの原木の穂木を譲り受けて、自らの園地に接いだうちの1本で、氏は、これらの樹を活用し、幾多の苦労を経ながら、ふじの特性を見抜いた鋭い洞察力をもって、栽培指導と普及に努められ、以来半世紀を経て、ふじの「準原木」と呼ばれる所以となっており、氏の没後は、彼を慕う有志らによる「齋藤昌美顕彰会」の皆さんによって守られてきました。
氏は、昭和43年の山川市場以降の高接ぎ等による品種更新を柱とした「生産改造運動」の立役者となり、ふじ独特のせん定技術の基礎を築いた実績と献身的な普及活動は、ふじの「育ての親」として、青森県りんご産業の揺るぎない基盤構築に偉大な功績を残しています。
弘前市は、ふじの栽培普及のみならず、りんご栽培の技術向上に、生涯情熱を注がれた氏の業績を、広く市民をはじめ、りんご公園を訪れた全国の皆様に見てもらい、知ってもらうため、顕彰会のご厚意により、氏の園地のあった市内一野渡から、ここりんご公園に移植したものです。平成19年11月28日』

りんご道 文 齋藤昌美
『りんごの樹の云うことを理解しようと意を決して50年 未だその言葉を見い出せず 今も尚その境を一人彷徨う 必ずやその樹の魂にふれるまで私は伐る そしてその完成をめざして吾は遍路の如く願い歩む 求道にあうまで』

私はりんごに全然詳しくないのですが、重きお言葉に心打たれます。

最後に向陽園。

「リンゴの神様」、「青森リンゴ中興の祖」とうたわれた外崎嘉七のりんご農園について。場所は樹木です。

かつての農園地は国に寄付され、跡地には弘前大学北溟寮が現在建っています。

東宮殿下(後の大正天皇)が向陽園を視察されたことを記念し、外崎嘉七が同業者の目標とすべく自ら建立した行啓記念碑(明治42年5月)。「鶴駕份憩」の題字は、弘前藩第12代藩主で、明治2年6月の版籍奉還後、弘前藩知事となった津軽承昭による書。縦書き碑文の撰文と書は、明治天皇に仕え東宮侍講も務めた本居豊頴によるもの。

明治41年、大正4年の2度にわたり訪れています。毎年9月24日には記念碑前でりんごの祭典が行われます。

外崎嘉七は袋かけ、ボルドー液散布などの病虫害対策、一段式剪定法など栽培技術の改良に努めた人物。

こちらはツルハドラッグ弘前樹木店の向かいにある外崎翁記功碑です。



ちょっとした公園になっていますよ。リンゴ栽培中興の祖とされる外崎嘉七(1859~1924)。清水村大字富田字童子森の小農の家に生まれた嘉七は、14歳の時に金木屋に見習い奉公に出、のち本家の婿養子となりました。明治15年に岩木山麓枯木平の常盤野農牧社の牧夫となり、支配人笹森儀助の薫陶を受けました。明治20年に村へ帰りリンゴ栽培に着手し、二町歩のリンゴ園「向陽園」を開きました。明治31年に病害虫が発生したときに、樹幹洗浄法と袋掛け法を考案し、同44年からの病害のときには、県農事試験場技師島善鄰(のち北海道帝大総長)とコンビを組んで、薬剤散布による病害虫防除、樹園の適正経営規模への縮小、樹形改造のための一段形剪定(上の枝を切り落す"芯おろし")などを唱導しました。嘉七は県内各地を巡回指導したほか、晩年には長野県にも指導に行って「良い競争相手が青森りんごをよくする」と語りました。嘉七の生産品は、内国勧業博覧会をはじめ各地の品評会で名声を得て、明治32年から清水村村会議員を四期勤め、同43年中弘産馬副組合長、清水生産購買信用組合長に推されました。大正10年緑綬褒章をうけ、没後従七位に叙されました。「リンゴをつくるなら人をつくれ」が彼の言葉として永く伝えられています。



記念碑の横には…

骨!?(( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

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