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りんご生産量日本一を誇る当市の地域経済振興の中核となる施設として、平成14年4月26日にリニューアルオープン。
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園内には、約65種、1200本のりんごを植えているほか、りんごに関する知識や情報を遊びながら学べるコーナーや軽食・喫茶コーナー、りんごに関する物販コーナーなどがあります。 
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様々な碑もあります。近付くと音楽が流れてたり。
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『われらつどいて 花まつる リンゴの花 わかき日のこころの花 ふるさとの花 りんごの花』竹内俊吉 作曲:桜田誠一 歌唱:都はるみ
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『りんご追分』
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昭和27年映画「りんご園の少女」の挿入歌。
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『物は乏しいが空は青く雪は白く、林檎は赤く、女達は美しい國、それが津軽だ。私の日はそこで過され私の夢はそこで育まれた。』石坂洋次郎
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中土手町にもある少女像『りんご園』。
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戸澤誠作。
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比べてみて(笑)
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弘前には鉄砲訓練所として弘前駅あたりに竹森文之助砲術射的場、交通公園近くに会田熊吉砲術射的場、紙漉町奥に阿部松太郎砲術射的場、東城北の神明宮の裏に篠崎進砲術射的場、春日町奥に竹森文之助砲術射的場・長谷川小四郎砲術射的場・佐々木市蔵砲術射的場、新寺町奥に千葉平弥砲術射的場と計8ヵ所があったといいます。
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そしてこのりんご公園一帯は大星場と呼ばれる藩の演習場でした(嘉永7年(1854)8月落成)。
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ここで火砲、鉄砲の訓練が行われ、擂鉢山は台場であり、この人工の小丘に向って発射していたのです。
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砲口から長さ5丁50間、幅60間。擂鉢山は嘉永元年に人夫9854人の人手により作られた標高83mの人工の小丘。
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ちなみに早道之者(津軽藩に仕えた忍者組織。中川小隼人他約20人)は当初長勝寺裏手を修行の場としていましたが、後にこのりんご公園付近を修行場としていたといいます。当時は修行場に適した土地でした。教官は小隼人(早道之者頭)から忍術を継承した棟方家(初代胸形玄蕃義利。長男角之丞は青森市の宮村八幡宮を再建。)であり、杉山家とともに早道之者の指揮を執りました。また、弘前天満宮付近には薬草畑や薬物庫も構えていました。早道之者の修行場が後に藩の演習場になったわけですね。
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絵図を見ると砲口場に三ツ鳥居!?と思ったけど、よく見たら鳥居は1つですね。
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砲口場付近から擂鉢山を望む。
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大星場の西端にある杉林には戊辰戦争の戦没者慰霊となる招魂社が建てられていました。
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現在はりんご畑のようです。ときわざか霊園付近かな。
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新撰陸奥国誌によりますと、「招魂神社、常盤坂村の南の方、津軽家旧教場の裡、小阜の上にあり。明治元年、同二年戦死没死せし津軽、熊本の兵卒等、他藩の兵隊中、ここにて死せし者を併せて同二年六月これを神祭す」とあります。
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明治2年1月3日に千葉県河津村沖で難船して溺死した九州熊本の細川藩の家中の二百名近い人々や、長州、徳山、薩摩、水戸、福山、大野、伊州の武士で青森で亡くなった人たちも合祀されています。
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後に弘前招魂社は弘前城近くのかつての弘前相互銀行(現みちのく銀行)倶楽部の所(藤田記念庭園)に移されて、元々そこにあった稲荷神社は西の郭に移された後に田町の八幡宮に合祀。招魂神社は更に第八師団設置後に北の郭に移されて(明治43年)、後に護国神社と改称されたのです。
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高山開運稲荷神社についてはこちらをどうぞ。
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