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御祭神は誉田別尊。
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創建年月日不詳。
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新屋城の主郭付近と考えられる新屋八幡宮社地。
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貞享4年検地水帳に高宮太夫抱えの八幡社地と境内林6反余がみえます。
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栄館の旧郷社八幡宮は浪岡北畠氏が津軽郡中に勧請した3つの八幡宮の内の1社で、文禄4年(1595)津軽為信が再建。
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寛永19年(1642)11月に津軽信義が祈願所にして社領18石余を寄進。
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新屋氏は津軽家家臣となり津軽為信より100石を与えられて弘前藩士となりましたが、新屋源次郎より13代目の新屋茂樹は近衛文麿の秘書を務め、茂樹の死後、新屋家より新屋八幡宮に甲冑、太刀、陣羽織、陣笠などを奉納。
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八幡宮由緒書(抄)。
「草創の年月久遠にして詳ならずとも雖も寛永19年(1642)11月津軽太守信義公、東山根通御鷹狩の節、遽に心願を興せられ、當社へ参詣、社司へ祈祷を命ず。齋するに果たして祈念成就せられしを以て感悦斜ならず此上ながら随分祈祷相勤可申旨被仰付。加ふるに翌20年正月16日の夜枕神に立たせ給ひける旨にて尚37日間の祈祷被申付、祈願成就感悦の余り神饌を供ひ、御神楽を奉納せられ、同年7月16日より御作事被仰付、本殿、神楽殿、鳥居、橋等に至るまで悉く皆造営せられ爾来旧津軽藩主に於て祈願所と崇め明治維新に至るまで恒例たり。明治6年郷社に列せらる。昭和21年4月11日宗教法人令、昭和28年2月11日宗教法人法により神社規則の認証受く」
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青森県神社庁の方がわかりやすい文章かな…。
「草創の年月は不詳なれど、記録に依れば寛永19年(1642)11月、津軽大守藤原朝臣信義公が、この地域で御鷹狩の節、にわかに心願を興され当社へ参詣し、社司へ祈祷を命じたところ、心願が成就し大層喜ばれ、社司にこれからも祈祷に精励するように仰せ付けられた。そして、翌20年正月16日の夜、当社祭神が、信義公の枕元にお立ちになり、尚37日間の祈祷を続けるよう申されたので、その旨社司へ命じたところ、祈願が成就し感悦の余り当社へ神饌を供え、御神楽を奉納、同年7月16日より本殿、神楽殿、鳥居、橋等に至るまで、悉く全て新しく造営し、翌21年正月20日、社領地として30石を寄進された。それ以来、明治維新に至るまで、津軽藩主の祈願所として崇められた。明治6年4月、郷社に列せられ、昭和21年4月11日宗教法人令、更に昭和28年2月11日、宗教法人法により神社規則の認証を受ける。」
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建御名方神社。
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奉祝銀婚式記念。
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神輿倉かな?神楽殿はどこに…。
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再訪記事:『新屋八幡宮(平川市)

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