
東照宮別当寺院の岩鬼山叡平寺薬王院は寛永寺の末寺。

かつては東照院と称していましたが後に改名。天和3年には千寿院、仙城坊、円鏡院、学音院、成就院、一乗院、高智院、理教院などの12家があります。

かつては侍町と小人町(二階堰以北)として町割りされ、東照権現宮と薬王院の門前に衆徒屋敷が配置されています。

東照宮と同じく、北の二階堰(和徳堰)と東の土淵川を利用して堀をめぐらしています。

薬王院橋。

寛文13年の弘前中惣屋敷絵図によれば東照宮境内全体が薬王院と記されており、東照宮の名はありません。ちなみに弘前の方は「やくおういん」ではなく「やこういん」と呼んでいます。




津軽天台四山の1つに数えられた薬王院は神仏分離で東照宮が独立し、明治5年に本堂が取り壊されて寺坊も廃されて、寺領も没収されています。現在の薬王院は明治10年の再興。


菅江真澄の本に『そのむかし建立したという3つの寺のうち、景光院は絶えてしまい、観音院は南部にうつされた。この百沢寺もたくさんの僧坊は天正17年(1589)火災にかかってあともなくなったが、いまの国の守の祖先、右京大夫為信が、本堂、下居の宮(岩木山神社)を再興されて、たいそう立派につくられた。また寺につらなって、宝積坊、西福坊、山本坊、福寿坊、南泉坊、円林坊、東林坊、万福坊、徳蔵坊、法光坊などがあった。(弘前の東長町に岩鬼山薬王院叡平寺という寺がある。むかしの永平寺の名をかりて、いま薬師如来をすえ奉っている。)神主は安倍常陸掾盛季である。』と書いてありました。


鳥海山は薬師仏と国安瓊姫命を祀っていて、かつては「鳥海山景光院永平寺」があったとされています。元は松代村にあったとか。これは鯵ヶ沢の松代町のことでしょう。貞享4年検地水帳によれば鯵ヶ沢町松代村に百沢寺抱えの薬師堂地があります。安政2年神社書上帳によれば元文年間創立で、後に神仏分離により少毘古名神社となり、国誌によれば明治初年に百沢村高照神社に合祀。更に復社して久須志神社になったとか。

御由緒より…。
『巌鬼山叡平寺薬王院は寛永元年(1624)津軽2代藩主信牧公の建立した天台宗の寺院である。元和元年(1617)4月、東照大権現徳川家康が没するや信牧はその翌年に弘前城の天守閣のそばに祠を建立して家康公の霊をまつりこれを舘神としたが寛永元年城外の東方の地、笹森町に移し新たに東照大権現社堂を造営した同時に別当寺院として薬王院を建てたのである。そして大阿闍梨本祐法印を開山に迎え寺領弐百石を与え社僧の千寿院、成就院、寿福院、教王院、延命院、観教院の六坊を建立、十五石づつを与え信牧は上野寛永寺の天海僧正に師事してその教えをうけ天台宗を信仰していたので薬王院もはじめは上野寛永寺の末寺であった。しかしのちにこの寺は取りこわされ再建の上京都延暦寺の末寺となった。
薬王院の記録によれば承応3年(1654)3代信義が再興し、さらに元禄9年(1696)4代信政が修覆しており、また天保5年(1834)には9代寧親社殿堂宇を再建薬王院に自分の木像を寄進するなど歴代におよんで保護を加えている。
薬王院5世怒覚法印は学識が高く藩主信政が深く帰依したといい、また13世覚範法印と寧親も密接な関係があったので寧親がその木像に書状をそえて寄付したというこの木像薬王院が取りこわされたさい新寺町報恩寺におあずけとなった。
しかし明治3年の神仏仕分けによって寺縁が廃され薬王院の建て物はいったん取りこわされてしまったが明治10年に再興した。

寧親の書状は次のとおり
「当家開きてより以来代々に至り始めて侍従任じ十万石高直しこれあり候事先祖に対し規模与え申し子々孫まで威光蒙るの段きつきようは其方儀丹誠ぬきんでて武運を祈り候の故に候これによって此段宮殿を造り我肖像を安置致しにつき其方の像も我像の前に侍座申しつける也 寅閏三月 右京太夫 薬王院え」これでみると覚範という僧はよほどの御気に入りであったと思われる。また津軽氏は代々曹洞宗であったが信牧は天台宗を信仰したのでその代に新寺町報恩寺、猿賀の神宮寺や熊野宮の袋宮寺などいわゆる「天台四山」をつくり天台宗の寺院とし構築されたのであります。薬王院27世道隆 合掌
付記 巌鬼山叡平寺薬王院は日光山輪王寺の宮一品守澄親王より御添書に依る。
津軽八十八ヶ所観音霊場第六十番札所
詠歌、ひにつきにやくしかんのんねんずればげんぜあんのんごしょうごくらく』


「弘前東照宮 (笹森町)」の記事
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