初代藩主為信が津軽氏と改称する以前の姓が「大浦」でした。
藩政時代初期は城内の一画にに大浦町を町割りしていましたが、後に現在地に移転し、藩政末期まで重臣たちが住んでいたところです。
元禄・宝永年間、武家屋敷の郭外移転で完全に侍町になります。
慶長16年~寛文4年頃、大浦町は弘前城内の三の丸に位置し、絵図などによれば侍屋敷のみあり。 寛文13年、弘前中惣屋敷絵図からも依然として侍屋敷が多数ありました。
賀田御門(北内門)跡をご存知でしょうか?
築城当初は北門が城の表玄関で、賀田門が三の丸の北内門として旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築して存在しました。
門の内外は直進できないように折れ曲がった枡形が造られていて堅固な備えを見せています。
場所はさくらまつり等で皆さんが黒こんにゃく等を食べながら歩いている、あの鋭く湾曲する坂道。
あの坂ってさくらまつりで一番混み合うでしょう?
当然です。桝形は人を通りにくくさせるように造られたようなものなんですから。
坂下には文禄3年(1594)に開削されたと伝える二階堰に架かる賀田橋。
二階堰に架かる橋ですので敵の侵入を防ぐ際にはすぐに壊せるように造られた架け橋ともいえます。
かつて八幡宮を出発した山車は亀甲町から城内に入りました。亀甲門・北門(4.86m)は支障がなかったのですが、賀田門は敷居を四尺掘り下げたことから、亀甲門・北門より1.2mほど低かったそうです。
また、弘前藩最大の一揆(民次郎一揆)では亀甲門を押しあけ、賀田門まで迫ったと記録にありますね。
大浦町の長く緩い坂は勾配は違えど、賀田御門跡の坂道と平行し、同じ位置で二階堰と交わります。
弘前城の濠には段差があって、自然と北へと流れるようなシステムになっていますが、この堰で分裂された濠はというと、実に近代的なシステムで結ばれています。
古地図では二階堰を境として大浦町と大浦町下町と見え、東隣りには黒石町、黒石町下町とあります。
方角的には坂下に位置する二階堰より北側が下町と名付けられていますね。高低差が町名にも見られているのです。
城内に残る"賀田"の名と城外に残る"大浦"の名、そしてかつて大浦町は城内に町割り…私に命名させるならシンプルに『大浦坂』もしくは『新賀田坂』・『さくら坂』といったところでしょうね(笑)
弘前城の南方面から下町へと下る坂はどこも急勾配ですが、大浦坂を下って(←もう使ってるw)弘前城を一周すればゆったりと下町へ移動できますね。そんな遠回りする人はいないでしょうけど。
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