平行する2つの町を紹介。まずは蔵主町。
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【蔵主町(くらぬしちょう)】標柱。
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藩政時代初期は町家として町割りされ、「蔵人町」と呼ばれていました。その後早い時期に侍町に変り、「蔵主町」と文字が変り、後に現在のように呼び方が変りました。
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西は大浦町、東は長坂町、北は亀甲町、南は東長町で南北にのびる町。東西に二階堰が流れています。
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正保3年(1646)の絵図では町屋とあり、慶安2年(1649)の絵図では御蔵橋を境に、南が「くろうず町」、北が「くろうず町下町御小人町」となっており、そうめんや・たばこやといった小売商や大坂屋・長さきやといった屋号のある商家や武家屋敷等があります。
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寛文13年(1673)の絵図では町名がなくなり侍町となり、町屋はありません。延宝5年(1677)の絵図では御蔵橋より南が上蔵主町、北が下蔵主町。また「蔵人町」と表記する史料も残されています。
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寛保3年には家老津軽多膳が当町の南端に移転。明治4年に帰弘した菊池九郎も一時期は当町に居住していました。
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長坂町。
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蔵主町と笹森町に挟まれて平行している町。
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同じく中央には二階堰が流れて、長坂橋が架かっています。
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この長坂橋から長坂町とついたようですが、長坂橋の由来がわからず、結果町名の由来は不明。
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しかし純粋に考えれば南から北へ緩い坂道になっていることにちなんでいるのでしょう。
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正保3年(1646)絵図では西は町屋、二階堰を境に北は小人町、南は町屋。慶安2年(1649)の絵図では二階堰の南は座頭町、北は座頭町下町御小人町。
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座頭15がみえますが寛文13年(1673)の絵図では座頭はまったく居住していません。
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緩く長い坂上に津軽塗製作所がありました。
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