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津軽藩の始祖と仰がれる大浦光信公がこの地の種里に入部した後、近隣を平定し大浦へと進み、五代後に津軽統一を果たした為信公へと続く歴史の第一歩がここにあります。 
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長勝寺ってあそこにあったんだ…海蔵寺ってあそこにあったんだ…
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って感傷に浸ることができる地図。弘前市民には馴染みのある跡だらけです。
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映画「わさお」ロケ地。
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牡丹園(寄贈顕彰会)。
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「政信公(初代藩主為信公の二代前の人)の時、故あって近衛尚通公が津軽へ流され政信公と猶子(名目上の養子)の契りを結ばれたという。このため津軽家は近衛家から牡丹の紋を下賜され、代々杏葉牡丹の紋を使うことを許されたという。」
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光信公の館。種里城は延徳3年(1491)、南部光信が久慈から安東氏に備える為、この地に派遣され築城したのが始まりと伝えられています。
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光信は大浦氏を名乗り周辺豪族を懐柔させ勢力を広め津軽地方へ進出、大浦城を築くと養子である大浦盛信を置き、大永6年(1526)に種里城で死去。
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その後、大浦氏は津軽氏として津軽地方を統一、小田原の役では豊臣秀吉に臣従したことで大名として認められこれを期に南部氏から独立し弘前藩が成立。
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種里城はその後も津軽氏発祥の地として重要視されていましたが一国一城令後に廃城となり城内に埋葬された光信の御廟所は聖地として保護されました。
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現在、種里城は郭の形状などが残る他、光信御廟所、光信が死去後殉死した奈良主水貞親の墓があり、本丸附近に光信公の館(鰺ヶ沢町郷土文化保存伝習館)があります。
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津軽家御手植えの樹。
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下門前付近。
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光信公の像。
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本丸跡。
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本丸跡の西南…
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光信公御廟所はここから下っていった場所にあります。
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津軽藩始祖大浦信濃守光信公御廟所。
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光信は甲冑を着し刀を帯びた武将の威儀を正した姿で葬るように遺言。種里城の一郭に設けられた御廟所に、立ち姿で埋葬されました。
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不思議なことに今日にいたるまで光信公の廟所には1本の雑草も生えていません。 
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奈良主水源貞親の御墓所。主水は応仁の頃、浪人をして奈良に閑居していた貞政の子です。長ずるにおよんで親から捻刀の術を学び、志を立てて越後・出羽そして深浦へと下だり、光信公の名声を聞いて臣下になりました。
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主水は大永3年(1523)光信公が種里八幡宮を建立した時、初代神官に任じられます。館前、萩の館合戦において大いに奮戦してその名を挙げ、奈良姓を名のります。
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主水51歳の同6年、光信公が病に倒れ、この時、主水を枕辺に召し寄せ「汝冥途に先立ちて我に供奉せよ」と命じたので、主水は従容として切腹、殉死。よって公の廟所の傍ら官ノ尾に葬られました。
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