
奥州津軽の霊地、猿賀神社 (奥州猿賀山深砂大権現堂)。御祭神は上毛野君田道命。相殿神保食神。旧県社。江戸時代までは深沙宮・深沙大権現と呼ばれました。また、別当寺と一体で猿賀神宮寺とも言われます。『津軽ふるさと散歩(小舘衷三)』には次のようにあります。『(前略)「深沙大権現」の深沙大将について。結論から云うと、北方鎮護の毘沙門天-多聞天、妙見-北極星に化身する。(中略)「大般若経」の守護神とされた。大般若経(六百巻)は、最勝王経、仁王経と共に護国三部経といわれ、その転読によって「鬼」(たたりをなすもの)を鎮め、国土安穏、五穀豊穣が保たれるというのである。猿賀の祭りには以上の祈願がこめられ、「鬼の面射ち」の行事があることによってもおわかりと思う。津軽の中世文書の中に、乳井福王寺(毘沙門天)関係の寺院で、毎日大般若経の転読が行われていた記録があるし、猿賀は福王寺の支配下でもあった。猿賀神宮寺縁起によると、「当園は日本の艮(うしとら-東北-鬼門)に中る間、往古(むかし)、比叡山を移して三千坊を置く、いわゆる阿遮羅千坊、十三千坊、高野千坊、神宮寺(猿賀の別当)は阿遮羅千坊の一也という。」で、京都の鬼門の鎮護に比叡山延暦寺=三井寺、山王日吉神社を配しているのと同じ発想で、日本の東北-青森県-津軽は鬼門にあたるから比叡山にならって三千坊をおき、その一つとして猿賀深沙大権現を鎮座させたという。境内の鏡池の弁天島には琵琶湖の竹生島弁天にならって弁天堂を祭り、かたわらに山王日吉の小社があるのもそのためである。』

仁徳天皇55年(367)に蝦夷制圧のため陸奥に赴いた上毛野君田道は目的を達することなく戦地で没し、南部鹿角郡猿賀野の産土神として祀られました。

その後欽明天皇28年(567)の洪水に際して田道の霊が白馬に乗って当地に流れ着きます。


延暦14年(795)坂上田村麻呂が蝦夷平定に苦戦した際、夜叉形の深沙大権現に助けられたことがきっかけとなり小祀だった当社に社殿を建立(※建立は阿倍比羅夫とも言われます)。

社伝によれば大同2年、治承2年、建武2年、延文4年、応永18年に造営が行なわれています。これに関しては奥州藤原氏、北畠顕家、藤崎安東氏、津軽為信、津軽信義らが関わっています。


文亀2年(1502)円明坊が再建。

永禄日記によれば天正14年(1586)正月に津軽為信が祈祷所とし堂及び十二坊を修繕。


津軽為信は祈願所とする一方、天正15年に津軽統一の過程で神宮寺の僧を追放し猿賀十二坊を破却、最勝院を別当に任じて天台宗から真言宗に改宗させました。





元和5年(1619)に津軽信枚が寺領100石を寄付して再興し天台宗に復しました。

承応3年(1654)社殿・寺堂修復。神宮寺は猿賀山長命院と号し、子院12坊、社家4家を擁しました。文政6年(1823)落雷により焼失しますが2年後に復旧。

明治初年の神仏分離により猿賀神社と改称し郷社に。※相殿神の保食神については『yuki散歩 part8 ~ 旧尾上町・平川市』の記事の中佐渡保食神社の説明参照ください。

明治13年県社に列格。神宮寺は破却されますが東光院は明治26年に神宮寺の寺号を継承して現在に至ります。

石灯籠も狛犬も大きい!


本殿・棟札は県重宝。



この門の上部には「猿賀大神」と書かれています。

元神社正面にあったものを田道の神霊碑に移したもの。


田道神霊碑。

上毛野君田道神霊とあります。御祭神上毛野君田道命。

明治28年未年旧4月1日建立。

琵琶湖に見立てられている鏡ヶ池。

こんな伝説があります。


『猿賀の境内の大池に片目の魚がすむといわれる。猿賀の神様は、昔トコロのツルに足をひかれて倒れ、そのはずみにウドのからで目をついたため片目になってしまった。それから池の魚も片目になったという。津軽の古い盆歌にも「おらも見だ見だ猿賀の池よ、猿賀池の雑魚(じゃつこ)ぁみな盲(めつこ)だ」と歌われている。

また、こんな話もある。境内には薬師の清水という湧水があり、目の悪い人はこの清水で目を洗うとよいとされている。そこで人間の目の病が池の魚にうつって、魚が片目になるのだという。』


水天宮(あかい堂)の蛇はよく知られていますが、胸肩神社(弁天宮)の裏手にもこのような大蛇がおられることは意外に知らない人が多いかも。


胸肩神社(弁天宮)、日吉神社 (猿賀神社)、水天宮(あかい堂)、池上神社(薬師堂)については以前記事にしていますので説明省略。

土俵の柱がカラフル。

なお、菅江真澄が天明5年(1785年)に参詣し、伝承と行事について記しています(外が浜風)。また、青森伝説によれば、猿賀神社の境内に猿賀石という巨石があり、それは田村麻呂が蝦夷の長を打ち、その首を埋めたしるしの石だといい、石の表面に馬蹄形の跡があるといいます。

猿賀の神は欽明天皇の御代、秋田県鹿角郡から洪水に乗って津軽に漂着したといわれ、このときまず降臨なされたというのが、尾上町金屋の権現平にある神石という巨石で、これも猿賀石といいます。石の上には神様がはいていた足駄と杖の跡、それに馬の蹄の跡が残っているとか。この石の上には雪が積もらないといわれています。ちなみにこれは境内にある要銘石。

天皇陛下御即位五十年奉祝記念植樹孔雀柏。発見者(昭和8年)小島繁寿先生。命名者牧野富太郎博士。昭和49年尾上町天然記念物指定。

「此の孔雀柏はアラカシの変種にしてその生息地は気候温暖なる京都周辺に限り少数生育し東北地方に於いては当猿賀神社境内(東南猿賀石付近)にのみ自生しており植物学的に貴重とされ世に珍樹と言われるゆえんなり。此のたび尾上町高木に居住する田辺市右衛門氏によって育成奉納されたその苗木をここに植樹するものなり。昭和50年5月3日猿賀神社崇敬会敬白」

「猿賀公園」
「盛美園」


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