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猿賀山深沙大権現堂は猿賀村の南寄りに鎮座。
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寺門(仁王門)はもと神社参道正面にあった旧神宮寺山門。明治4年の神仏分離令の際に現在地に移されています。
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古くから猿賀山深沙大権現堂の別当の猿賀山長命院神宮寺。旧神宮寺遺物の深砂大王の額、大浦為信寄進の梵鐘の一部(「猿賀山御宝前寄進、大施奥州津軽惣願主藤原朝臣右京大夫為信」と刻みます)、津軽九代藩主寧親寄進「大般若経」を保存。
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猿賀神社と同じ由緒を持ち、延暦年間(781~805)に坂上田村麻呂が東夷東征の際、古くから祭られていた上毛野君田道命に戦勝祈願したところ見事念願成就。
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感謝の意と桓武天皇の勅令によって堂宇を造営し深沙大権現を安置したのが始まりと伝えられます。
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別当、天台宗神宮寺は藤原秀衡、阿倍師季、円明坊らが修復再建し江戸期を迎え、天正14年(1586)当時の領主津軽為信が再興し祈願所とします。
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しかし南部家との対立もあり天正15年(1587)に神宮寺と支院十二坊は壊されて、神宮寺の僧侶は追放、天台宗から曹洞宗に改宗させられ別当も最勝院が務めるようになります。
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元和年間(1615~1623)、津軽信枚が天台宗にかえし、神宮寺に支院十二坊と社家4人を配して、寺社領100石を寄進しました。
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文政6年(1823)に落雷で焼失しましたが文政8年(1825)に再建。しかし明治初年の神仏分離によって猿賀神社と改め、神宮寺と支院は破棄。
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蓮乗院は存続を許されて、後に猿賀山蓮乗院(天台宗)になり、旧神宮寺支院の東光院も明治26年に復興し、猿賀山神宮寺(天台宗)と改めました。堂内には悪病退散を願い正座している鬼神様が祀られています。
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仁王門に安置されている金剛力士像(仁王尊)。高さ2.5m。朱塗り木彫。天保年間に弘前鍛治町の大工秋田屋安五郎作。
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「本藩旧記に依れば、文政6癸未年(1823)6月14日作、弘前鍛治町秋田屋安五郎の作と言われる。同旧記に尾上村惣兵衛、猿賀村庄兵衛の寄進したものと記録されている。平川市文化財」とあります。 
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こちらは天台宗猿賀山蓮乗院。御本尊は一光三尊来迎阿弥陀如来で鎌倉時代の作といわれ、高さ二尺五寸、脇侍として観世音菩薩、勢至菩薩。寺伝には延暦12年の開創とありますが不詳。猿賀山長命院神宮寺支院十二坊のうち。元和5年に二代藩主信枚より寺禄15石を賜りました。正徳年間に火災に遭って建物は焼失するも、御本尊は難を免れています。本堂は享保元年に再建されましたが、明和3年の大地震で押し潰され、享和元年再建し、これが現在の建物の一部。文政元年本堂再修復。文政2年2月に御本尊の光背、台座、脇侍を完成。大正5年に第31世住職村田道憲師が募金鋳造した釣鐘(通称乃木の鐘)が、昭和19年に第二次世界大戦の戦時中に軍に徴発。以後しばらくは釣鐘はありませんでしたが、昭和61年に32世大僧正村田孝憲師の遺志を継ぎ、33世村田孝澄師が先代の遺金と檀信徒一同の寄付により、鐘並びに鐘楼再建。なお、山門は昭和36年32世孝憲師が檀信徒一同の寄付により建立したもの。当院所有の一光三尊来迎阿弥陀如来、御領分中御山絵図一冊、津軽藩造林元帳及び留帳元帳六冊・留帳三冊は町文化財指定。
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仁王門。
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大黒天。
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蓮乗院の本尊である一光三尊来迎阿弥陀如来像についての標柱。
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「天正13年猿賀十二坊為信に一山破却さるより約30年津軽越中守信枚公により復興される。中央本尊は鎌倉時代の造作と推定されるが後背、台座、脇師は文政時代の作である。平川市文化財 」とあります。 
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猿賀山深沙大権現
別当:神宮寺
衆徒:
正覚院
東光院
常住院
華蔵院
善教坊
宝蔵院

多聞院
普門院
明王院
勝福院
蓮乗院
地蔵院

社家:
今和泉太夫
本宮太夫
中宮太夫
宮ノ太夫

社人:太江右門・神三郎抱えの屋敷
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盛美園
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