町名の由来は春日宮にちなんでいます。藤原氏を名乗る津軽家が氏神の春日社を祀ろうとし、信政が岩木山麓から移し、八幡宮、神明宮と共に三社を構成しようとしたものですが、社地を造成しただけで亡くなられたそうです。
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津軽一統志によれば、春日宮は宝永5年(1708)に建立の計画がありましたが中止となり、延享2年(1745)に完成。しかしまもなく衰微して天保5年(1834)の絵図では春日堂跡となっています。その春日堂跡に春日大明神の祠が残されています。
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次のようなエピソードが残されています。
明和3年(1766)1月28日PM18:30、明和津軽大地震(M6.9-7.3、震源地は弘前-大釈迦)が発生し、死者は1500人以上に及んだといいます。更に余震は1年近く続いたそうです。
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亀甲町の桶屋甚兵衛の夢に春日町の春日明神が現れ、地震にて倒壊した社を嘆き、「獅子二頭で鬼門をふさぐ祈祷をすれば余震を止めてやる」と告げたそうです。かつては狛犬一対もあったのでしょうね。
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ちなみに八幡宮、神明宮と並ぶ重要な神社です。八幡宮は武神で鬼門のおさえ、神明宮は城内に勧請され、元は伊勢堂と称して信枚が現在地に移しました。天照大神(伊勢神宮)、八幡大神(石清水八幡宮)、春日大明神(春日神社)の三神の託宣を合わせて三社の託宣といい、伊勢は正直・皇室、八幡は清浄・武家、春日は慈悲・公家を表し、鎌倉末期から室町時代にかけてできた思想に基づくそうです。
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近くには大久保堰が流れます。
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標柱より。
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宝永8年(1711)弘前城の西北端 馬喰町の北側に町割りされました。現在も同所にある春日宮は、宝永5年(1708)に建立が計画され、延享2年(1745)に完成したもので、町名はこの宮に由来するといわれています。なお享保10年(1725)には、町内の御用地に星場(射撃場)も作られた、典型的な侍町です。 
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