日本基督教団弘前教会教会堂は県重宝です。
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木造、一部二階建、鉄板葺、建築面積238.04平方メートル。
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現在の教会堂は、明治37年(1904)焼失の教会堂に代わり、明治39年(1906)12月に完成、翌40年8月に献堂式が行われたもの。
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設計は弘前学院外人宣教師館の設計者とも伝えられるクリスチャン棟梁桜庭駒五郎。
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全体はフランスゴシック風の双塔形式で、白のオイルペイントで仕上げ、四方に控柱を設けています。ドリップストーンの付いた窓は尖塔アーチとして、上部をトレサリーで飾っています。和洋折衷感が面白いですね。
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礼拝堂は、内部天井を大きく折り上げるため、合掌の途中で陸梁を架けた変則のキングポストとし、レリーフで飾られたメダイオンが白漆喰に映えて美しさを強調。
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さて、この土地はかつての本多家の屋敷跡(※生誕地は在府町)。この弘前礼拝堂の文字も本多庸一の自筆だとか。
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明治8年(1875)に横浜から帰弘して東奥義塾々長となった元津軽藩士本多庸一は、一緒に来弘したジョン・イングと共に弘前公会を設立。東北最初のプロテスタント教会として弘前公会(現弘前教会)が誕生。これは本多庸一が洗礼を授かった横浜公会に由来しています。しかし、誕生後間もなく北米メソジスト教会からの援助を受ける関係もあり、メソジスト教会として歩み始めました。
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本多庸一牧師は板垣退助らに連帯し、津軽における自由民権運動を展開しました。また、女子教育の必要を説き、遺愛女学校(函館)の協力を得て、明治19年(1886)に弘前女学校(現弘前学院)を当教会の和室で誕生させます。
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2012年3月26日、本多庸一牧師の没後100年となりました。ちなみに「本多庸一」を「ほんだよういつ」と発音するのは津軽弁だと勘違いし、「ほんだよういち」が正しい発音だと思い込んでいたのは私です(照)
「東奥に生れし日本の国士 日本に出でし霊界の大人」岡田哲蔵
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