貞昌寺では境内に塔頭寺院として天徳寺・西光寺・西福寺・徳増寺、円城寺(現廃寺)、境内外に同じく遍照寺があります。

まずは大福山 天徳寺。西光寺の西、徳増寺の北に位置。本尊は阿弥陀三尊。

蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によりますと、天文年間(1532-1555)に建立され、はじめは臨済宗の寺だったといいます。慶長2年(1597)頃、退廃していた同寺を光蓮社良心が再興。寺伝によりますと、はじめは田舎館村にあり、大浦村(旧岩木町)へ移転、慶長年間弘前城下へ移り、開基・開山は不詳。

正徳元年(1711)の寺社領分限帳によりますと、2代藩主津軽信枚が慶長年間御目見を仰付け、代々御目見寺となり、慶安年間(1648-1652)現在地へ遷ったそう。津軽一統志によりますと、貞昌寺3世良城(良識)が当寺に隠居し、信枚に茶道を教授したといいます。
寛永17年(1640)3代藩主津軽信義が天徳寺へ参った際、隠居料として50石を与えようとしましたが、当寺は固辞し、代りに下屋敷を1つ得たといいます。このため良城を中興開山とし、同年より御目見寺となったとあります。ちなみに新撰陸奥国誌では慶安3年元寺町から現在地に移ったとします。

お次は行岳山 西光寺。天徳寺の東、西福寺の北隣に位置。本尊は阿弥陀如来。

蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によりますと、開山は寂蓮社良然、元和年間(1615-1624)の開基。寺伝によりますと、同寺の開基は宗祖法然の弟子金光で、奥州を布教中、蓬田村の阿弥陀川で阿弥陀如来像を発見し、像を背負って布教。最後に庵を結んだ中野村(浪岡町)に、後に西光寺が建てられ、代々浪岡城城主北畠氏によって保護されたといいます。同氏滅亡後寺は荒廃しましたが、藩祖津軽為信が三尊仏と寺領を与え再興。

正徳元年(1711)の寺社領分限帳によりますと、貞昌寺末寺として行岳山西光寺があり、寺領の13石は為信が慶長年間に寄付し、同年間に浪岡村より現在地へ移ったとします。

「津軽一統志」によりますと、開基不詳、開山金光とします。為信の再興を慶長4年とし、浪岡八幡宮の別当職に任じたとします。「新撰陸奥国誌」に明治2年(1869)西福寺に合併するとあります。本尊の阿弥陀如来立像は室町時代後期の作と考えられており県重宝。

お次は松林山 西福寺。徳増寺の東に位置。本尊は阿弥陀如来。

蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によりますと、慶長2年(1597)創建で、開山は念蓮社焉憶、開基は不詳。
新撰陸奥国誌によりますと、はじめ堀越村にあり、慶長年間弘前の寺町の貞昌寺門内に移ったとあり、近江国出身の久安を中興とします。

慶安2年(1649)の横町・寺町の大火により、貞昌寺とともに焼失し、翌年現在地へ移ったと考えられています。円空作の十一面観音像・地蔵像があり、いずれも県重宝。また狩野常信筆の観経曼荼羅があります。

最後に縁亀山 徳増寺。西福寺の西に位置。本尊は阿弥陀如来。

正徳元年(1711)の寺社領分限帳によりますと、天正年間(1573-1592)三世寺村に創建されたとあり、開山・開基は不詳。

蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によりますと、開山は安蓮社良隠意源とありますが、新撰陸奥国誌では承応2年(1653)貞昌寺6代無用の開基とし、中興に南部出身の天悦。慶安3年(1650)の新寺町取立てに伴い現在地に移ったといわれます。

文久3年(1863)4月21日に焼失の記録があり、また、明治2年(1869)天徳寺との間にあった円城寺を合併したとあります。

南無延命子育地蔵尊。

両足尊!

賓頭盧尊者像!

五百羅漢様の一番弟子。市内北瓦ヶ町の篤信の方が寄贈なさったとか。

その他葛西善蔵の墓碑などもあり、碑文が刻まれています。
「白根山 雲の海原夕焼けて 妻し思へば胸いたむなり」

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