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国誌によれば専修庵とあります。
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文化3年の浄土宗弘前貞昌寺末寺で阿闍羅山と号し、本尊は阿弥陀如来(阿弥陀如来立像・台座裏に元禄9年の墨書銘あり。胎内に和徳城主小山内讃岐守の生首の絵を納めているといいます)。阿闍羅山専修寺は大鰐町の阿闍羅千坊の一つであったものが現在地に移ったもの。文化3年の弘前分見真図には専修庵とあります。
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開山は不詳ですが貞昌寺18世金蓮社良紫貞祐上人とも言われます。
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和徳城主小山内讃岐守佛掛軸を所蔵しており開帳は10~15年ごと(※2021年ご開帳、前回は2021年より12年前。毎年命日供養を行っており、他の法要と重なった年にもご開帳。2021年は浄土宗開祖法然の没後810年法要と重なったためご開帳。)。元亀2年5月5日、津軽統一を図る大浦為信の奇襲を受けて打ち取られた讃岐守ですが、難を逃れた妻が後に恨みをのんで命を落とした夫の首を絵師に描かせたのが、和徳城最後の城主讃岐守の生首絵です。生首絵は目を見開き歯を食いしばった形相です。
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また、餓死供養塔二基(餓死供養名号塔、餓死供養題目塔)が弘前市指定有形文化財に指定されています。
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江戸時代、津軽の地は米作りの北限でした。
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津軽は寒冷なためたびたび冷害に見舞われ、特に、元禄・宝暦・天明・天保年間は大飢饉となり多くの餓死者を出しました。
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津軽一円の村々の墓地などには、今でも餓死者の供養塔を見ることができます。
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専修寺付近は、餓死の際に施行小屋を設けたり餓死者を葬った場所に当たり餓死供養塔や庚申塔などの民間信仰碑があります。
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境内には二基の餓死供養塔(市指定有形文化財)があります。
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一基は、享保2年(1717)8月に建立された元禄の飢饉の餓死者を供養するためのもので、大津屋太兵衛以下和徳町内有志7名によって建てられ、津軽最古の餓死供養塔です。正面には「南妙法蓮華経」の髭題目を刻み、左側面に「為六凡四生仏果菩提」、右側面に「為餓死精霊抜苦與楽也」と刻みます。台座を含めて158cmの安産岩の題目塔。
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もう一基は、嘉永6年(1853)8月に建てられ、総高約4m(塔身高さ3m36cm、台座51cm、安山岩)と津軽でも希有な大きさを誇ります。正面「南無阿弥陀仏」と刻む餓死供養名号塔(名号は貞昌寺30世良示和尚の筆)。和徳町の工藤慶助、松嶋伊兵衛が発願主となり、三国屋久左衛門の出資援助により、岩木町杭止の川より40ヶ村6390人(裏面に村ごとの人数が刻まれています)の手で運ばれたものです。
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二つの塔には、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」と浄土宗の「南無阿弥陀仏」が刻まれ、宗派や身分を越えた津軽の人々の厚い信仰心を知ることができます。
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う~ん…石も重そうだけど歴史も重いです。それにしても本当に大きい石。
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