
御祭神は大山祇命、大國主命、水波女命。 『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三著)に次のような記述がありました…『川倉の八幡宮の相殿に昔大地主神・大山祇神・水波女神を祀るが、現在竜神の小社があるのはこの水波女神を祀っているらしい。なお、先年、川倉の虫送りの調査をしたドイツ人シェパイデル氏の報告に、この行事で配布するお礼に「奉斎水波能女神清浄天津水賜攸」があるというし、さらに東の山に雨乞岩があると知らされた。そこで調査の時に村の老婆にたずねたら、雨願いは、子供の人形を持って雨乞岩に奉納し、この人形を流す程に雨を降らせて下さいと祈るのだという。』
さて、この神社入口が2つあるんですよね。


津軽三十三霊場第十三番札所の川倉芦野堂。十三番となったのは寛延年間(1748~51)ですが、創建は寛文8(1668)~12年(1672)。

三代藩主信義が津軽一統の戦いに倒れた戦死者と地元開拓事業に汗を流し亡くなった農民を供養するために選んだ霊場の一つと伝えられてきた場所。

安政2年神社書上帳によれば、村内林下に三社権現(観音堂)があり、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来に、飛竜権現を加えて飛竜三社大権現に改称しています。


明治4年に三柱神社と改称。明治6~8年の間は金木村八幡宮に合祀されています。

観音堂は廃堂となったわけですが、仏像は信者たちが隠しながら持ち歩き、最後は行方不明となり現在に至るといいます。

※現在のものは新しく山源の津島イツさん(津島文治氏祖母)が寄進されたもの。

昭和になって金木の大地主である池屋(高橋家)と山源(津島家)が観音堂再建に乗り出し、三柱神社手前の右横に完成させました。

その際に近くにある芦野湖にちなんで「川倉芦野堂」と命名。弘前長勝寺や金木山雲祥寺住職らによって納めの儀が盛大に行われたそう。


本尊に記された年号は昭和10年10月9日。新本尊は弘前市の仏光堂三代赤石岩太郎氏作で、中央に阿弥陀如来、右側が薬師如来、左側に観世音菩薩となっています。

堂の中も外もセンサーでライトがつきます。

境内にはやたらと「便所」の案内看板があります(笑)

「正保二年津軽四代高照公信政新田奉行武田源左エ門館跡」の標柱がありました。

昨年訪れた時にはなかったような…と思ったら「平成23年7月18日」の文字。新しいんですねぇ。

そして標柱の麓に大黒天が。

金木町名木のケヤキ。

樹齢500年、幹の太さ4m31cm。

拝殿。






蛙股や木鼻の色遣いがかっこいいです。



馬の蹄(笑)

拝殿の軒下に大きな飛行機が!


若櫻と書いております。航空兵合格記念奉納。


散る桜残る桜も散る桜…おっとこんな言葉は縁起悪いですね。失敬!

菅江真澄が「日の傾く頃、川倉村にでて、観音林という杜にはいった。弥陀、薬師、観世音の御像をきこりが斧で刻んだのであろう。これをここでは神のように崇めて、幣をささげ、注連をひいているのは仏をすべて神として祭るみちのくおくの習わしだからであろう。これはしかしながら、またわが日本の国の信仰のさまともいえる。神前に何の木か紅葉していた」と記しています。


「水上はいずこなるらん川倉の 耳にこととう山びこの声」




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