
銭形平次の碑。

野村胡堂(1882~1963)の名作『銭形平次捕物控』の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立。

神田明神から明神下を見守る場所に建てられ、隣には子分・がらっ八の小さな碑もあります。


燈籠は野村胡堂が昭和7年から14年まで居住した世田谷区砧8丁目の佐藤様宅に飾られていたもの。隣りは銭形平次の子分の八五郎(通称:ガラッ八)の碑。

国学発祥の碑。
国学は、荷田春満(1669~1736)により江戸において始められた学問。春満は伏見稲荷大社神職の出。有名な赤穂事件のとき、当時吉良邸に出入りしていた春満が赤穂浪士たちに秘かに情報を提供し討入を助けたというエピソードもあります。その春満に最初に入門したのが神田明神神主家の芝崎好高であり、邸宅を講義の場として提供するなど国学の普及・発展につとめました。
また春満の弟子・賀茂真淵(1697~1769)も、神主芝崎家の邸に一時居住。真淵は、御三卿・田安宗武に仕え、一方で江戸在住の武家・町人層を中心に国学を広めました。
碑は春満・真淵そして芝崎神主ほか明神神職による国学の発祥を記念して、昭和53年12月に建立。題字は当時伏見稲荷大社宮司・守屋光春、撰文は直木賞作家・今 東光氏によります。

阿部しょう人の句碑。
碑の表面に俳句「山茶花の散るや己の影の中」が刻まれています。しょう人 (1900~1968)は、俳句雑誌『好日』を主宰し俳句論をおこなった人物。昭和47年11月12日建立。

千社札の碑。
200枚以上もの千社札が刻み込まれた碑で、平成12年建立。千社札は江戸時代中期より流行した千社詣からはじまったと言われています。参拝者が、自分の名前・屋号等を記した紙札を社寺に貼ることで御利益が得られるとされました。

明神会館では神前式が行なわれます。

明神会館の横には江戸時代からの御神木大公孫樹があり、向いには明神男坂。

天保年間に神田の町火消4組が石段と石灯籠を奉献。眺めがよいことから毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)が行なわれました。

又、当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていました。ブラタモリ「江戸の食」でタモリさんがおっしゃっていたように神田明神は海を削った本郷台地のキワです。

本郷台地のキワは「坂」というよりも「崖」ですね(笑)

更に通称女坂と呼ばれる男坂よりきつそうな坂があるのですが…

境内案内図には紹介されておらず本殿裏手の階段(裏参道)を旧女坂と紹介しています。


祖霊社。

神田明神を尊崇なさった氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社で平成16年創建。なお、祖霊社隣の籠祖神社(ご祭神 - 猿田彦大神、塩土翁神、天孫瓊瓊杵尊)は工事中で見れませんでした。

三の宮奉安庫(鳳輦庫)。



鳳輦神輿奉安殿。

神田祭で一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安。

水野年方顕彰碑。

浮世絵系日本画家・水野年方を顕彰するために、大正15年(1926)に弟子の鏑木清方・池田輝方らが発起人となり境内に建立。関厳二郎撰書。

金刀比羅神社。

御祭神は大物主命、金山彦命、天御中主命。

天明3年(1783)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋二丁目両国町会)に創建。江戸時代には神祇泊白川家の配下となり、祭祀が斎行されていましたが、明治6年(1873)7月に村社に定められました。かつては隅田川の船人たちの守護神として信仰され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業や遊芸を職とする人々の厚い信仰を集めました。

昭和41年10月7日両国より神田明神境内に遷座し、三宿稲荷神社とともに御鎮座。三宿稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神。創建年は不詳。

水盤は左右側面の銘文によると、文化2年(1805)2月に伊勢屋治兵衛によって奉納。


更に背面の銘文に、安政3年(1856)6月に神田、日本橋、京橋、下谷、本郷界隈に住む45名の人々により再建。

末廣稲荷神社。


御祭神は宇迦之御魂神。


宇迦之御魂神、級長戸辺之命、級長津彦之命を祀っていた旧社で、元和2年(1616)頃の社で極めて古く、昔から霊験あらたかな出世稲荷様として庶民信仰が強かったと伝えます。


現社殿は昭和41年に再建。

浦安稲荷神社。

御祭神は宇迦之御魂神。元は江戸平川の河口に近い所(現内神田鎌倉町附近)に祀られていたもの。

天正年間(1573~)徳川家康公江戸入府に当り城下町整備に際し鎌倉町の成立と共にその守護神として勧請。

寛政9年(1797)同町の崇敬の念篤き大工職平蔵により社殿造営。

天保14年(1843)8月、町割改めに際し神田明神境内に遷座されました。

明治維新及びその後の戦火災に依り復興できぬ内神田稲荷社五社を合祀。

江戸神社は大宝2年(702)に江戸の地・現在の皇居内に創建、江戸最古の地主神として今もなお崇敬されています。慶長8年(1603)に神田明神が仮遷座した時に神田駿河台の地に移り、その後、元和2年(1616)に神田明神が現社地に遷座するとともに江戸神社も現社地に。

江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたことから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称されました。
慶長10年6月7日に神輿渡御が行われ、以後「天王祭」として、神田明神より南伝馬町の御旅所まで神輿が渡御し、途中、江戸城大手橋に神輿を据えて神事も行われました。
明治元年(1868)に神社名を須賀神社に改称。同18年2月の火災で社殿焼失し、神田明神に仮遷座。その際「江戸神社」に3度改めました。更に翌19年に南伝馬町持ちから神田市場5ヶ町持ちへと変更。

平成元年5月、今上天皇陛下ご即位を記念し江戸神社奉賛会の人々により、神田市場移転により市場内に鎮座していた江戸神社の神霊を神田明神へ仮遷座し、翌12月に神輿庫を改修して、千貫神輿(昭和33年鹿野喜平作)を奉安し社殿として正式に鎮座し現在に至ります。

大伝馬町八雲神社。

御祭神は建速須佐之男命。

この神社は江戸時代以前に祀られていたと伝えられています。

大伝馬町八雲神社鉄製天水桶一対。

銘文によれば、この天水桶は、江戸深川上大島町(江東区大島)在住の御鋳物師である大田近江掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)が作成したもので、江戸の問屋仲間の一つ太物問屋仲間が天保10年(1839)6月に奉納したものです。

大伝馬町八雲神社の運営費用は宮元である大伝馬町が伝馬入用から賄っていましたが、後に太物問屋仲間が賄うようになります。そのため天水桶には大伝馬町の名と共に太物問屋仲間の名前が刻まれています。

小舟町八雲神社。

御祭神は建速須佐之男命。



この神社は江戸城内吹上御苑より神田神社と共にこの地に遷座。小舟町「貞享年間(1684~)までは小伝馬町」お仮屋を有し神輿が渡御されたことから小舟町の天王と称されました。

小舟町八雲神社鉄製天水桶一対。

銘文によれば、天水桶の奉納者は、江戸の魚問屋中に属する商人・遠州屋新兵衛他10名。鋳造したのは江戸深川上大島町(江東区大島)の鋳物師大田近江大掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜八)。

鳥居を入って左側の天水桶は、安政4年(1857)に再建されたもので、右側の銘文をもとに鋳造したもの。

魚河岸水神社。

御祭神は水神、弥都波能売命。

日本橋に魚市場があった頃に徳川家の武運長久と大漁安全を祈願するため市場の守護神・大市場交易神として神田明神境内に祀られましたが、明治6年(1873)9月に当時の魚市場内(日本橋長浜町2丁目4番地、現在の日本橋室町1丁目、本町1丁目周辺)に鎮座していた常磐稲荷神社の合殿に祀られました。


明治24年(1891)に社名を魚河岸水神社と改め、更に明治34年(1901)9月、再び神田明神境内に遷座し末社として祀られ、盛大に水神祭が執り行われたそう。

なお社殿の周辺には、神田日本橋の人々により大正13年(1924)12月に建立された「神田日本橋桶工水溜講」の石碑が建っています。

小唄塚・小唄作詞塚。

鋳造したのは、江戸深川上大島町(江東区大島)の鋳物師・大田近江大掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜八)。

釜屋六右衛門家は、11代続いた御用鋳物師の家系で、初代六右衛門は近江国栗太郡辻村(滋賀県栗東市辻)から寛永17年(1640)に出府。

当初は芝に居を構えていましたが、万治元年(1658)に大島村に転居し。梵鐘、天水桶、茶釜、鍋、釜などを製造していましたが明治維新後に廃業。


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