
境内の小栗山神社由緒より…

『御祭神:大山祇命・外十一柱。文亀2年(1502)卯月半ば頃左五郎が子重五郎と申す樵夫当村より南方の深山に行き暮れるに及び帰らんと欲せしが途方を失うに於いて思推し大榎の元に自座す時に夜漸く四更の頃遙か右の方に光明嚇然とし傍に妙なるかな麗木大石の上に獅子の頭一頭座居し身に五色の幕を纏い悪魔降伏の角振り乱し光明を放ち給う彼の一頭申して曰く「善哉善哉承れ吾当社に在ること年久しく又尋常の人の耒る処に非ず汝我を負い人里に至り尊崇すべくば永く人間を守護すべし」と宣託せり此処が大和沢領八幡岳なり権現平と言うて今に存す。重五郎彼の一頭を負いて下山し当村の西南の処に一つの草堂を建て安置し給うこの時重五郎社職を主掌し自ら良く祈祷を加持し給うその時唯権現のみ勧請し給う諸人病症幸福を祈る実に利益感応ありこの時禰宜如何なる神号にて宜しからんと日夜案じけるが或夜枕辺に立ち託して曰く「吾は天の七星地の主にて五行人間を化育し給う故自今十二所権現と神号すべし」と言い給いければ当國の衆人御神徳を感じ当國の鎮守となる。これより十二所宮として寛永八年(1732)現宮司清野貞則氏より十二代の祖十二所宮神主与五郎禰宜時に現在地に遷る明治六年郷社に列せらる。近郷旱魃の時御神体を八幡岳山頂に祀り雨乞いする時は必ず霊験ありと言う。』

十二所権現で熊野信仰。小栗山の人は昔から熊肉を食べないとか。


元禄16年(1703)に千年山には薬草が植えられ、薬園が造られています。また鷹待場もあったそうです。

貞享4年検地水帳によれば、常光院抱えの権現堂があります。国誌によれば、明治初年には小栗山神社があります。

小栗山神社の祭神は伊弉那岐尊、伊弉那美尊、事解男命、速玉男命、少彦名命、大山祇命、隠山祇命、奥山祇命、闇山祇命、敷山祇命、麓山祇命、原山祇命、戸山祇命。

古くは十二所神社(十二所宮)と称していて、かつては一渡村の東南2里にある八幡岳に鎮座していたと伝えられます。小栗山の人々の雨乞いは元奥宮の八幡岳で行っていましたが、不便なので境内の竜神宮で行うようになったといいます。

寛永8年現在地に鎮座。明治5年相殿として一渡村から八幡宮、大和沢村から小栗山神社別座の宇迦廼御魂命の2座を遷座し祀り、明治6年郷社に列しました。


不思議なことに、この神社の氏子は岩木山参詣をしないと言われています。

伝説によると、三姉妹の神が岩木山の神になることを願っていましたが、神楽を見物している間に末の女神が岩木山の神となりました。そこで長姉は岩木山の見えない小栗山の神となり、次姉は大坊(猿賀神社)の神になったといいます。

この由縁から小栗山の神は獅子舞を嫌うらしいです。(他に、津軽地方の支配を争った二神のうち勝った神は岩木山に、敗れた神は小栗山に隠れたとする伝説などもあります)。※伝説です。実際のところはわかりません。ただ、大社の祭りが同じであると困ることから、日をずらすために生まれた話とも言われます。岩木山、猿賀、小栗山の祭りは津軽三大祭りと言われて賑わっていたため。

平成3年の台風19号の被害がひどく、その際の倒木を利用して神楽殿を築いた際の記念碑。


神符守札受興所。

神楽殿。


右が月夜見大神、左が馬頭観世音。

猿田彦大神(文政5年6月18日)。

行堂。今でいう更衣室です。地味な建物なので見逃しがちですが、実は重要文化財的建物らしいです。

山之大神。

正一位稲荷宮。


八幡宮。


薬師如来。


御神泉源池。昭和15年拝殿建立。以前のものは藩政時代から続く小さいものでした。ただの小屋に見えますが、昔から村中でコツコツと修繕してきたもの。

御泉水の池の水はほう酸成分がやや多めに含まれているそうです。昔は薪を使って暖をとりましたが、その煙のせいで津軽の言葉でいう「目くされ」が発生。この御泉水で洗うと治りが早かったそう。

駐蹕碑。←天皇が足をとめてよったところ。真中の寳殿。
左の忠魂碑は日清・日露戦争で戦死された人々の慰霊碑(在郷軍人会千年村分会創設)。大正11年9月11日建立。昔は年に1回千年村の人々が集まり、棒術大会をしたり、語り明かしながら霊を偲んだそう。

寶殿は縦3尺・横3尺・高さ6尺。明治天皇が、通称乙女様という小さな丘があり、周りに樹々がたくさんあったため、休むに良い場所と思い、その小丘の一番高いところに座り、一杯のお茶を飲んだ際に感服され、ここに木材の記念の祠を建立。大正4年10月、大正天皇もご来臨なされ、お茶を一服。木材から現在の祠に建て替えました。ちなみにその地は後に弘前市役所に売却されたために現在地に移設されたそう。

『小栗山町会ではこの度町内環境整備事業として由緒ある建造物を整備し町民の憩いの場を造成し町民の心を癒すことを願うものです。
一.右端の石碑の書は弘前城最後の家老役をなされました大道寺繁貞のものです。
一.真中は明治天皇が東北地方へ行幸なされた時に小栗山地区の千蔵山にて休憩した時使用なされた器具等が保管してあります。
一.旧軍隊が存在した時、弘前をはじめ津軽一帯から陸軍大将は只一人で、その名は一戸兵衛の書です。平成18年7月吉日弘前市小栗山町会』

神杉之碑。かつて境内に樹齢二千年周七尋の神杉があったが昭和四年に倒木して、その代木を植えた記念碑とのこと。



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