下土手町と中土手町を繋ぐ蓬莱橋。
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重厚な造りです。橋からは最勝院五重塔も見えます。
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蓬莱堂壁面に何やらレトロな看板も見えます(笑)※2012年9月取り壊されました。
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かつては通称で土手町大橋(又は土手の大橋)と呼ばれていました。蓬莱橋になったのは1750年頃らしいです。蓬莱は中国の蓬莱伝説に因んだものでしょう。
蓬莱伝説についてこちらで触れています。
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明治初年の国誌には「秋田道(碇ヶ関道)の本街にして、土淵川を中にして下は上町の域に交り駅嫡を置き、郵便所を設け、逆旅雑董舗呉服店酒戸薬師魚店米賈等雑居し、繁豊の街なり」と町の状況を記しています。
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大橋(蓬莱橋)の擬宝珠については「慶長十八癸丑年二月吉日」の陰刻があり、新町坂下の先達ケ淵の橋にあったものを移したもので、安政年間の改鋳時に古銘を転写したといいます。
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明治11年戸長役場(現在の町村役場の前身)が設置されます。同10年には蓬莱小学を開設。明治18年に大成小学校が開校しますが、これは蓬莱小学、敬業小学(北川端町)、知類小学が統合したもの。女子の第一大成尋常小学校、男子の第二大成尋常小学校に分かれたのは明治35年のこと。明治39年、蓬莱橋周辺で38戸を焼失する火災が起こっています。
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蓬莱橋は大正4年の陸軍特別大演習に際して欄干に鉄柵をつけたものに架け替えられました。昭和25年に架け替えられています。
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昭和26年の蓬莱橋架替渡初…とんでもない賑わいでどこが橋なんだか(笑)
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「青和食堂・青和(階上割烹・階下食堂)」、「伊狩洋…(服店?)」、「永井…店」という看板も見えますね。昭和10年古地図では伊狩はわかりませんが永井薬店が左側見えます。位置が変っていなければこの写真は下土手町側からの蓬莱橋写真ですね。
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着物で歩く女性が印象的な写真。
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「日本交通公社」「松緑」「仁平寿司」などの看板が見えます。
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下の写真では「野崎薬店」の巨大看板が凄いです。この擬宝珠が先達ケ淵の橋のものだったのかな。
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昭和10年古地図に「野崎食品株式会社」というのはあるんですけどねぇ…中将湯を売りにした津村重舎(ツムラ明治26年(1893年)創業)の薬の宣伝ですかね。婦人薬なのにがっつり強面の侍さんがアピールしるのが面白いですね。下の写真では特徴的なかくみ呉服店が見えますね。
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中三横の螺旋階段を降りると土淵川沿いに遊歩道に出ます。
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遊歩道は昼間でも暗くて独特な雰囲気。
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そしてどこからか水が滴り落ちています。夏場はいいのですが冬になればかっちこち!!
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蓬莱広場には「ミュージックハウス タクト」がありました。
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ここで初めて楽器を買ったって人も多いのでは。
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タクトは下に練習場があり、練習場の窓から外を見るとまさに土淵川の真横でした。淡い記憶ですが。
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隣にはシエント。そして2階には葡萄屋。
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明治の地図を見ますと蓬莱橋に「製札場」…よく見ると「元製札場」ですね。
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漢字が違いますがここに「制札場」がありました。「陸運社」という字も見えます。
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大橋自体が延宝8年、元禄14年、享保13年、宝暦2年など度々洪水にて流失。また、延宝5年、延享元年、寛政8年、天保10年、文久2年などに火災になっています。
この地図を見る限り、やはりポワンルージュ方面へ暗渠がありますね。
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現在の蓬莱広場…
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冬になれば巨大卍が現れます。
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土手町標柱。
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築城当初は東側から城下に入る唯一の通りで、土淵川の西端に堤が築かれていたことから土手町と呼ばれるようになったといわれています。貞享二年(1685)から参勤交代の通路となり、商人町として発展しました。
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