弘前市城東中央。八幡林の入口に道路を隔て、大体四角形の面積約一反歩。やや北寄りのところに泉水があり、周囲には杉・松・藤等があり、30坪くらいの広場もあり、憩いの場として地域住民からも行楽の方々からも親しまれていたところ。昭和の初め頃に柳田誠三郎氏の父が小さな祠を建てて信仰したものですが、特別の信仰家もあり、薬師様、龍神様、八幡様、稲荷様など信仰されたようです。毎年8月7日(七日日=ねぷた流しの日)に、午前中泉水の清掃をし、午後は例祭と称して地域の方が大勢で賑わしたそうです。※ちなみに貞享4年検地水帳によりますと外崎村に清太郎(清太夫)抱えの八幡社が見えます。

昭和46年に区画事業のため付近一帯が整地されました。昭和49年、区画整理事業も順当に進み、仮換地計画も決まり、土地の引き渡しを受けて同年8月に現在の社殿が建立され、名称は城東八幡宮とし、大祭は6月15日と決定しました。昭和51年には篤志家により鳥居が寄進され、平成元年には幟一対が寄進、その他備品や御供物など多くの寄進があり、更に板碑二基を社殿後方に安置して、その供養も毎年行いながら現在に至っています。


御祭神は誉田別命。

手水舎?

本殿裏にある2基の板碑。昭和53年10月30日に市有形文化財(33号)に指定されています。

城東地区は元々高田や外崎などの地名に分かれていましたが、この2基の板碑は通称寺内(現在の外崎地区)にあったものです。

1号碑(4.5尺×1.5尺×1.4尺)は安山岩で種子は(バン)、その下に「右志趣者為(比丘尼後生:現在欠損)/善処成等正覚乃至/法界平等利益也而已」と3行の願文を彫り、正安元年(1299年)9月の紀年銘があります。2号碑(6尺×3.6尺×1.5尺)も安山岩を用い種子は(ア)、その下に3行の願文「右者為覚智尊/儀成仏得道乃至/法界平等利益」を彫り、正安3年(1301年)3月の紀年銘があります。但し、この碑の銘文の一部は補刻されたらしいです。2基とも火災に遭っており、碑面に剥脱部分があります。

刻まれている年号や銘文から当時この地方を支配していた平賀郡の津軽曽我氏の一族に関係する人物を祀ったと考えられています。また、鎌倉末期に寺院があったと推定されます。
ちなみにこの他にも3号碑(正安3年3月、3.7尺×1.6尺×0.4尺)と4号碑(年号不明、1.8尺×1.1尺×0.7尺)がかつてありましたが、区画整理事業によって紛失しています。
案内板に出てくる螺喰田園とは柳田誠三郎氏の祖父の代から耕作していたもので、作業の都合上半分は年中(稲刈り時は除く)水を入れる湿田としてありました。用水路が市街地を流れてくる関係から相当の肥料分もありました。花見時の天気の良い日には大きな螺が田の面にうろうろしており、螺の多いところは稲作も良好だったそうです。
※柳田誠三郎氏の本家柳田保三氏は五十九銀行支配人、豊田村々長、早稲田卒。弟柳田泉氏は早稲田大学名誉教授、文学博士。

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