
大同2年(807)に坂上田村麻呂が聖徳太子作十一面観音像を安置し、創建したと伝えられます。

貞観10年(868)に円覚寺法印により再興され、その後豪族や弘前歴代藩主の厚い庇護を受けていたことが文献等に記されています。

海上交易が盛んになると海上の安全祈願する船乗りが数多く参詣し、船絵馬や髷額を奉納して澗口観音として信仰を集めました。

新撰陸奥国誌によりますと、観音堂は藩政時代に津軽家の祈祷所として2代藩主信枚の寛永2年(1625)、3代信義の明暦元年(1655)、4代信政の元禄13年(1700)、五代信寿の享保13年(1728)に修理や再建が行われました。

寺宝として四代信政自筆の紺紙金泥仁王護国経写、五代信寿の滝見観音像、先代住職海浦義観が作った信徒の頭髪による刺繍曼陀羅などがあります。

津軽三十三観音の第10番の札所(第9番の見入山観音堂は円覚寺の管理下)。


33年ごとに本尊である十一面観世音像が開帳されます。次回は平成30年。

壮麗な仁王門。




鐘石。叩くと金の音がするとか…実際に叩いてみたら本当に金属音がしました。

ほほえみ観音。

様々な祠があり、それぞれ拝み方まで丁寧に書いていました。




青面金剛(庚申様)。

これって…

お地蔵様の頭!?人面石のような…

竜灯光明九字の綱。

円覚寺の竜灯杉。

「江戸時代、西廻り航路(北前船)の海の男たちが、この沖で暴風雨に見舞われ、髷を切って一心に祈ると、この杉の梢から一条の光が放たれたそうです。九死に一生を得て辿り着いた船乗り達は、常日頃篤く信じていた澗口観音円覚寺にその髷を納めました(重要有形民族文化財髷額)。このような伝説がいつごろからか、北前船の船乗り達に「竜灯杉(竜神が宿って船乗りに助けを与える神木)といわれるようになりました」

海難者供養之碑。

県重宝・宝篋印塔(江戸時代初期・笏谷石製)。

円覚寺のイチョウ(町の巨樹・古木)。

弘法大師。

あぁありがたや南無遍照金剛。

不動明王。


柴燈護摩道場…当寺は、江戸時代末までは「当山派修験道」(真言系の山伏)の寺院でした。今も7月16日の例大祭前夜祭(宵宮)に当道場に於いて柴燈護摩や火渡行法を行なっているそう。

国指定重要文化財の円覚寺薬師堂内厨子。

藤原基衡が寄進したと伝えられます。

県重宝の薬師堂鰐口に至徳2年(1385)の銘があり、これは至徳3年とも読まれます。また薬師堂の棟札に永正3年(1506)葛西木庭袋伊予守頼清敬白の記のあるものがみられます。

よって厨子は少なくとも室町時代中期、ないしは初期を下らないもので本県最古。

薬師堂内に寛永10年(1633)奉納の船絵馬があります。この絵馬を含む円覚寺奉納海上信仰資料106点が国指定重要有形民俗文化財。


金毘羅堂(護摩堂)。




金毘羅堂には西廻航路の船主・船頭の安全を祈願した船の絵馬が奉納されており、幕末から明治後半にかけての110枚があります。




護摩堂天井。

稲荷大明神。

本堂内へ。


四国八十八ヶ所霊場御本尊。

観音二十八部衆。

北村弥右衛門奉納絵馬。

「年号はありませんが、北村弥右衛門は津軽四代藩主信政公の家老ですので、元禄期のものであることは確実です。絵馬の「馬」が夜な夜なあばれて田畑を踏み荒らすので、その後手綱を加え、目をつぶしたと伝えられています。」

見応えありますねぇ。



「菅江真澄の道(春光山円覚寺)」がありました。

寛政9年(1797)2月10日(「つがるのおち」)、この寺で語り暮らした真澄は、「春雪にふり埋れたる雪の梢」を眺めて次の一首を詠む。「木々の芽も春の光のやまのはは花とみゆきの霧も長閑かさ」

春光山円覚寺(「深浦の観音様」「澗口の観音」)寛政8年(1796)7月16日、椿山見物に出立する真澄は、「飛騨の工等が建て」たお堂を拝観する(「外ヶ浜奇勝」)。これが現在国重文指定「薬師堂内厨子」。
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