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深浦湊は天然の良港で、江戸期には日本海沿岸の松前航路と下北航路の分岐点でもあり、風待港として、また白神山地の木材を上方方面へ積み出す港として明治末期まで非常に繁栄したといいます。
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弘前藩4代藩主津軽信政の頃には深浦は青森、鯵ヶ沢、十三とともに四浦の1つに数えられました。
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さて、日本海を眼下に眺望する岡町へ。
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顔が手書きっぽい地蔵堂がありました。
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三国屋商店で食事♪
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幕末から明治初年にかけて、船問屋が15軒ほどあり、そのうちでも秋田屋、越後屋、若狭屋、松岡屋、三国屋などが非常に大きいものであったといいます。
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藤森商店にて若狭屋への道を尋ねましたら、現在も代々住んでいる若狭屋の家を紹介され、電話までかけて確認してくれる勢いでした…親切過ぎますって(笑)嬉しいことですけどね♪
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私はこちらでいいんですよ…「元!!若狭屋竹越里圭家」。
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菅江真澄の道をいう標柱がありました。
「里圭は俳人としても著名で、加賀の千代、河合見風らとも親交があった。真澄来探の折にはよくその世話をしている。」
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「寛政10年(1798)6月9日夕方 真澄は竹越忠右衛門里圭の家につき、句を和した。かたり合にをりよく風の薫かな 里圭 秋とあざむく庭の真清水 真澄(外浜奇勝)」
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大地主の廣田家住宅。
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遊郭じゃありませんよ。そういえば岡町ではありませんが深浦には姨母と号す遊女があったようで…主に入津の船頭水夫をお相手に…込み込みで1晩600文。江戸の立ち食い蕎麦が16文で…夜鷹100文、吉原が1912文(馴染みまでは5736文)…平均的岡場所といったところでしょうか(笑)
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この辺については空白様が実に詳しく書いてらっしゃいます。ご参考に。
「空白つれづれ草」
http://blog.livedoor.jp/ukk_1/archives/1981479.html
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ここの大地主の末裔は弘前か五所川原で医者をやっており、有名な学者となったそう。現在は誰も住んでいません。
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またまた参照ブログ「空白つれづれ草」
http://blog.livedoor.jp/ukk_1/archives/1979754.html
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ちょくちょく紹介させてもらう「空白つれづれ草」ですが…今回私が深浦の町を歩きたいと思う動機になったブログです。こと深浦町に関しましては非常にお詳しく、たくさんの楽しい記事掲載されております。
玄関脇の棚には屋根の鬼瓦が置いてありました。入口小さっ。
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屋根のコーナーに取り付けられた扇形忍び返しが美しいです。やたらと猫が周囲にいたのでもしかしたらその対策だったのかも知れませんねぇ。
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中に入ることは不可能ですが通りから庭を僅かに覗くことができます。きちんと整備すればさぞかし立派な庭園になるでしょうね。
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横の雰囲気なんてまるで弘前の加藤味噌醤油醸造元的な…
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ちょっと違うか(笑)
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それにしましても、これだけ立派な建物でありながら近々取り壊して駐車場にするという話もあるらしいです。維持管理費等の小難しい問題に首を突っ込む気などはないのですが、他人事を承知で一言申すとするならば…「後悔するよ?w」
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あぁ~あぁ~あぁ~暑っち~!!…なぜすぐ目の前が海なのに私は丘の上を歩いているの!?って自問自答し出した頃に、まるで消防車のような鐘の音を鳴らしながらアイスを積んだ軽トラが颯爽と現れました。軽トラで街中を回っているんですね♪
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さて、アイスを食べて…最後に御仮屋の紹介です。江戸中期に深浦町奉行所が設置されます。町奉行所は無為館と呼ばれますが、これは文化3年に9代藩主寧親が同奉行所を仮屋とした際、酒興に乗じて「無為」と書き、以後これを額として掲げたことに由来します。なお、同奉行所は昭和49年町史跡指定。
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遠くから見ても木々が鬱蒼と生えている丘があるので場所はすぐわかるかと思います。須藤とうふ店発見!!…が、日曜は定休日でした(涙)
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御仮屋の案内看板。
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「藩政期風待湊として北前船の出入でにぎわった頃、奉行所がこの地に置かれ藩主巡幸の折の旅宿(仮屋)にも使われた。九代藩主寧親公は、特にこの仮屋が気にいられ「無為館」と名づけしばしば逗留した。深浦十二景にも「無為館松嵐」が選ばれ、今、松に吹く風に往時が偲ばれる。」
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御仮屋の屋敷図…ふむふむ。で、現場に到着…
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おぉ~!!
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トイレ以外何もない(笑)
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立派な松はありますが。
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あっ、展望台らしきものがありました。展望台から景色が素敵です。
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ちなみにこの地には吾妻館、その付近の六将の森の安東氏関係の板碑3基、尾上山大館、安東氏、葛西頼清、千葉弾正と館主が替わった深浦館などの痕跡もあるそうです。
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何やら石碑が立っていますね。
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「社船古城丸(1684総噸)は小樽港に於て貸物を満載し船川港向け航行の途中昭和25年12月18日當深浦港沖合にて稀有なる猛風雪に遭い航行の自由を失う萬谷船長以下全乗組員沈着果敢各々その職責に死力を尽したるに遂に悲壮なる無電を最後に本船と共に全員40名職に殉ぜらる嗚呼悲しい哉…(以下省略)」
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昭和26年12月18日…船沈没から1周年の慰霊碑でした。
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