弘前市西茂森。墓所へ直接入れるように入口が2つありますね。龍負山(竜負山)と号し、曹洞宗。本尊は竜負観音。もと長勝寺末寺筆頭。三十四世が宗門代表を務めていた明治中期に、曹洞宗は寺のなかった地域に寺院を創建、その関係で洪福寺(木造町)、徳蔵寺(稲垣村)、龍王寺(岩崎村)の三寺が末寺となっています。
イメージ 2
享禄3年(1530※享禄2年とも)五本松村(浪岡町)に、長勝寺2代秋澗梵菊を開山として創立。曹洞諸寺院縁起志は創立を同2年としています。開基は浪岡北畠氏七代具永、寺号は具永の法号竜負山(院)京徳祐元大居士にちなむそう。具永は弘治元年に亡くなり同寺に葬られ、以来北畠家代々の菩提寺になりました。北畠氏は南朝の忠臣北畠親房の流れをくみます。南北朝の騒乱時代に多賀城へ陸奥国司として派遣されたのが親房の子顕家。ところが親政を推し進めようとする後醍醐天皇と武家政治を復興して幕府を開こうとする足利尊氏の対立が表面化。天皇の命で京へ上った顕家率いる奥州軍は一度は尊氏を九州へ敗走させますが、延元3年(1338)の2度目の西上では安倍野や和泉石津の戦いで全滅。この顕家の子顕成、孫の顕元は岩手にいて船越御所といわれましたが、3代顕邦の代に浪岡に入部し浪岡御所といわれました。またこれとは別に顕家亡き後、南朝方の勢力挽回に努めた弟顕信の子守親が、同じく浪岡川原町に館を構えて川原御所といわれました。顕邦の後は顕義、顕具、具永、具統、具運と続きますが、具永の時代が最も安定した時期で、一時途絶えた川原御所を具永の二男具信が再興し、水木館に居を構えました。ところが、永禄5年に境界問題で両御所が対立。具信とその子顕重は具運を殺害しますが間もなく2人は具運の弟顕範やその子顕忠らに討たれています。この同族争いが北畠氏の衰退の一因となり、9代顕村時代の天正6年7月20日、津軽統一を目指す為信に浪岡城を攻められ落城。顕村は自刃し北畠家は滅亡。顕村の遺児らは水木、山崎などと姓を変え、金屋(尾上町)、館野越(板柳町)などで秘かに生き延び、明治に入って北畠に復姓しています。北畠家没落とともにその庇護者を失った享徳寺でしたが、開山が長勝寺2世だったことから元和年間に禅林三十三カ寺の一つに加えられ、長勝寺末寺の筆頭として重きをなしました。北畠家の菩提寺であったため寺格は与えられなかったものの、格別の寺として扱われ、長勝寺住職交代の際は曹洞宗の本寺「加賀・宗徳寺」代理として許可を与えたものだといいます。
長い歴史の中でほとんどの寺が火災に遭っていますが、享徳寺は一度も焼けていません。これは同寺に安置する龍負観音の加護によるものだといいます。北畠氏の守り本尊だったもので、開山当時から伝わるこの観音像は「龍は雨を呼ぶ」の故事通り、開帳すると必ず雨が降ったそうです。藩政時代、干ばつの時はこの観音さまを出して雨乞いしたといわれ、"雨ごい観音"としても知られています。現在の本堂は37世櫛引章三師が発願して1984年に着工。総ヒバ造りで本堂、二階建ての位牌堂を新築。このあと庫裡や山門を86年まで3年がかりで完成させ、87年6月6日に落慶式を行っている。それまであった伽藍は宝暦10年に建てられた禅林街の中でも最も古い建物でした。
イメージ 4
正徳元年(1711)の寺社領分限帳によると慶長年間(1596-1561)に弘前に移ります。天正6年(1578)大浦為信により浪岡北畠氏は滅び、それに伴い京徳寺も衰退。しかし開山が長勝寺2代とのことで弘前に移されて再興。
イメージ 5
内容はかぶりますが、寺伝によりますと、本尊の竜負観音は浪岡北畠氏の守本尊を江戸時代初期に作り直したもので、旱魃時には雨乞観音として信仰されたと伝えられます。
イメージ 6
なお、京徳寺をゲンバ(下馬の寺)と呼ぶのは、昔ここに下馬札が立てられていたからだそう。藩政時代には藩主が長勝寺に参詣する際にここで馬をおり、享徳寺住職の先導で歩いて行くのがしきたりでした。
イメージ 3
境内にある十二支堂は、天保10年(1839)東長町の豪商中田嘉兵衛が、六角堂、海蔵寺の薬師堂とともに寄進。十二支堂は熊野信仰(十二所権現)のもので八大尊が祀られ、信者は自分の生まれ年の干支の絵馬を奉納しますが、現在は十二支に含まれない絵馬まで納められて壁面を賑やかにしています。
イメージ 7
北畠公累代の位牌が祀られているのが見ます。
イメージ 1
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ