鳥居の鬼コがいる神社を只管に巡り歩いていますとあることに気付きます。
まず近くに川が多い…
水に関わる神社が多かったり…
河川の氾濫に悩まされてきた地区がほとんどであったり…
まず近くに川が多い…
水に関わる神社が多かったり…
河川の氾濫に悩まされてきた地区がほとんどであったり…
鳥居の鬼コと最も関り深いと感じる河川について今回は考察したいと思います。
古くからの鬼伝説が残る岩木山山麓の巖鬼山神社、赤倉山神社、鬼神社等では干ばつとの関りがあったことについてかつて述べました。いずれの神社にも「鬼」が見られますが所謂鳥居の鬼コとは様相が違います。
岩木川流域は梅雨や台風の影響が少なく、古くから水不足に悩まされた地域でした。渇水被害が甚大で、藩政時代は溜池や灌漑用水路を沢山作りましたが、津軽平野の開拓と共に用水は不足。昭和初期には干ばつによる水利権争いも頻発します。
鳥居の鬼コの分布はまさに岩木川もしくはその支流周辺。ちなみに岩木川が岩木山から流れている川と勘違いしている方もたまにいるので一応言っておきますが岩木川の水源は白神山地の雁森岳。弘前から北へ、平川(坂梨峠西麓が水源)、十川、旧十川、後長根川等の支川と合わせて津軽平野を抜けて十三湖から日本海へと注ぐ一級河川です。
支流は平川、浅瀬石川。延長102km。流域面積2,540k㎡。流域の土地は山地等が約72%、宅地等が約2%、平野部は約26%。平野部のほとんどは水田・畑の農地となっています。集水面積、流量は五所川原がほとんど。
歴史上の記録でも岩木川は渇水だけではなく、氾濫にも酷く悩まされ、その被害地域には鬼が集中しているのです。更に岩木川中下流域は特に軟弱な泥炭層が広がっているため被害は甚大。万治3年(1660年)、延享元年(1744)、寛延3年(1896年)、大正2年(1913年)、昭和10年(1935年)、昭和33年(1958年)、昭和50年(1975年)等々…特に昭和10年の洪水被害は非常に大きく、浸水区域は広範囲(鬼が現存する全域)でした。
とはいえ、岩木川はやはり古くから重要な河川です。
寛文~元禄の頃、十三は主要港であり、岩木川は舟運が行なわれ、十三湊をはじめとし、浜の町、三世寺、藤崎、板柳、五所川原市湊、藻川、金木町蒔田等の湊が非常に栄えました。
寛文~元禄の頃、十三は主要港であり、岩木川は舟運が行なわれ、十三湊をはじめとし、浜の町、三世寺、藤崎、板柳、五所川原市湊、藻川、金木町蒔田等の湊が非常に栄えました。
さて、弘前市・平川市寄りで鬼の分布を見てみましょう。
いずれも河川付近に分布しているのがわかります。但し、赤倉山の鬼コ以外!
※赤倉山神社の鬼コについてはyuki氏の個人的見解により鳥居の鬼コに分類されていません(おまえの個人的見解などいらん!って言われそう・・・)。
「赤倉山神社(弘前市百沢):鬼コ!?」
撫牛子八幡宮(創建年月不詳)の由緒では鳥居の鬼コは悪霊を防ぐ魔除けのために鳥居にあげられたとあります。その撫牛子八幡宮もやはり河川に挟まれています。ここで言う魔除けの魔を広義にとらえて水害等も含んでいいと思うのです。もちろん水害防止の裏には五穀豊穣の強い願いがあるわけです。
それよりもこの由緒からはっきりしていることは年代です。現在の鬼コは大正8年に製作されたもので、それよりも古い鬼コもあったようですが昭和26年に焼失しているということ。菅江真澄がいくつかの神社を訪れていますが鬼には一切触れていないことや、明治以降の神仏分離令のからみで神社となっているものや、鬼コの神社の由緒などを考察していくと、鬼コが出始めたのは早くても明治中後期~大正初期で、更に鬼コ自体が撫牛子八幡宮から広まったのが真実ならば、その他の鳥居の鬼コもこの時代以降に作られたものです。
さて、鳥居の鬼コが多い方面に目を向けてみましょう。
見事なまでにかつての河川氾濫区域に集中します。
河床勾配は下流部(河口部~五所川原)の汽水域では緩勾配ですが中流部(五所川原~平川合流点)・上流部(平川合流点~)は急勾配となっています。ちなみに十三湖は縄文時代まで遡ると五所川原市中心地手前まであった大湖だったと言われています。現在の形に近付いたのは平安時代後期。
明治時代になりますと治水運動が活発に展開されます。特に明治44年に全国主要河川改修計画第一期河川に指定された後は、国直轄で岩木川測量が実施され、更に個人の財産で堤防(小野忠堤防)を築くなど多くの先人たちの努力があったのです。
大正10年9月15日には岩木川改修起工式が執り行われ、洪水に苦しんできた人々がその解放の喜びと今後の流域町村の繁栄を願って9月15日を記念日としました。これが「岩木川の日」として現在に受け継がれています。
起工式は北斗グラウンド(五所川原市岩木川河川敷)で行なわれ、三好村(鶴ヶ岡村、高瀬村、藻川村)から工事がスタートしたそうです。
起工式は北斗グラウンド(五所川原市岩木川河川敷)で行なわれ、三好村(鶴ヶ岡村、高瀬村、藻川村)から工事がスタートしたそうです。
かつて大浦光信が赤石川の氾濫を鎮めるために軒下に竜を臥せて祀ったという歴史がありますが(功樹山臥竜軒)、この岩木川改修起工式では河川敷に「地鎮」の額を掲げた大鳥居を建設して盛大に行なわれたそうです。
岩木川洪水…大正10年…鳥居…地鎮…鳥居の鬼コと物凄い関わりを感じませんか?むしろ無関係という方が不自然なくらいです。
っていうか…「勝手に考察するより、宮司さんや鬼を奉納した村人の方々に直接聞いた方が早いんじゃない?」とか冷めたこと言わないの!考察が楽しいんだから笑
後は鬼コの尻との関連性さえ見えてくれば…(結局お尻?!)
後は鬼コの尻との関連性さえ見えてくれば…(結局お尻?!)
●八幡宮(弘前市撫牛子)
1686年建立。長利薩摩が社司をつとめる。悪霊退散の青鬼は津軽藩士片山玄南作。現在の鬼は大正8年に地元の石工が奉納。
●八幡宮(弘前市石川字寺山)
天文3年建立。農民安泰のため熊野大権現を祀る。文政11年より三山熊野宮と称していた。明治6年に熊野宮と合祭して八幡宮と改称。平川より取水する十右衛門堰・亦右衛門堰・法楽堰。
●神明宮(弘前市富栄字笹崎)
1687年建立。長利甚左衛門が多数の墾田を開発。岩木川左岸。
●月夜見神社(弘前市中崎字野脇)
1669年建立。明治以前は大師堂。三世寺村の神明宮に遷座。
●熊野宮(弘前市種市字熊谷)
1687年建立。熊野堂・熊野神社。村の産土神。白山堂を遷座。
●日吉神社(弘前市三和字上池神)
元山王堂。地内桜川。貞治3年大和国南都の田村作ノ丞が建立。永正年間大浦光信が再建。相殿には八幡宮・稲荷神・熊野宮・稲荷神。
●赤倉大権現(弘前市百沢字東岩木山)
大石川沿い。
●白山姫神社(弘前市鳥井野字宮本)
1687年建立。岩木川沿い。津軽藩時代は善神宮。十六膳神宮。
●三社神社(平川市日沼高田)
平川が近くに流れて土地肥沃。
●白山姫神社(弘前市鳥井野字宮本)
1687年建立。岩木川沿い。津軽藩時代は善神宮。十六膳神宮。
●三社神社(平川市日沼高田)
平川が近くに流れて土地肥沃。
●八幡宮(平川市柏木町柳田)
元和8年に勧請。柏木山大霊院。1614年社殿消失。天保6年再興。1622年再建立。大右衛門堰・白毛堰開削。
●稲荷神社(板柳町掛落林字宮本)
水除堤がある。天保年間に枝川母堰の水下に編成。天保3年創立の飛竜宮。明治6年稲荷神社と改め海童神社に合祀。
●八坂神社(板柳町夕顔関字長田)
寛永2年(1625)建立。元正観音堂。永山六左衛門が建立。明治6~8年に五林平村の八幡宮へ合祀。
●八幡宮(板柳町常海橋字駒田)
享保4年創建。
●八幡宮(板柳町五林平字細田)
承応3年に当村の百姓打越常左衛門が建立。
●八幡宮(板柳町三千石字二潟)
天保年間に三千石堰・藤崎堰の水下に編成。
●八幡宮(鶴田町境字高田)
1663年建立。藤崎堰・三千石堰の水下。
●八幡宮(鶴田町胡桃舘字池田)
西はくるみ館岸、南は大野甚右衛門知行之岸迄。天明3年凶作以後荒地。天保5年洪水被害。天保年間に浅瀬石川から取水する枝川母堰と平川から取水する枝川足水堰(現鶴田堰)の水下に編成。
●闇おかみ神社(鶴田町沖字岡田)
1684年建立。天保年間に小阿弥堰水下に編成。
●稲荷神社(つがる市柏下古川字絹川)
享保元年創立。1716年勧請。
●二柱神社(つがる市稲垣町沼館字友開)
享保3年創立。宝暦2年に稲荷神社を合祀。大正5年「天満宮」から改称。天明の飢饉の影響を強く受ける。岩木川と田光沼に注ぐ出崎放水との間の平坦地。
●熊野宮(中泊町豊島字豊本)
1700年建立。
●八幡宮(五所川原市七ツ館字虫流)
1655年~建立。明暦年間再建。広田堰を利用。
●熊野宮(五所川原市種井字鐙潟)
1687年建立。五所川原堰利用。元禄11年岩木川洪水にて冠水。
●八幡宮(五所川原市鶴ヶ岡字鎌田)
1656年建立。岩木川・十川の氾濫原にて、かねてより用水堰・水除堤の整備が必要な地。元禄11年岩木川洪水にて冠水。岩木川堤防に漆木を植林。天明元年正月に洪水にて堤防決壊。寛政10年の洪水にて堤防決壊にて冠水。この町の歴史は開発と洪水の繰り返しである。
●胸肩神社(五所川原市藻川字村崎)
1656年建立。明暦2年。弁財天。元禄11年岩木川洪水にて水除堤破損にて冠水不作。元文5年不作。安永4年岩木川堤防に漆木等を植林。安永8年、同9年、寛政10年に洪水で堤防決壊、田畑全冠水。
●高おかみ神社(五所川原市長富字竹崎)
1807年建立。元飛竜宮。明治3年改称。飛竜宮は文化14年新岡家の館神にて勧請。
●八幡宮(五所川原市沖飯詰字帯刀)
1655年建立。明暦元年再建。天明2年凶作。
●闇おかみ神社(五所川原市神山字鶉野)
1656年建立。明暦2年創立の観音堂。明治6年改称。長橋溜池を築造。天明3年大凶作にて荒地。
●八幡宮(五所川原市唐笠柳字皆瀬)
広田堰を利用。元禄11年に洪水による堰破損。修復はたびたび行なわれた。
●金比羅宮(金木町蒔田字桑元)
1782年建立。岩木川右岸。
●三柱神社(金木町川倉字林下)
●熊野宮(金木町喜良市字千苅)
1584年建立。長利竹斉が社司。大正12年再建。明治6~8年に立野神社に合祀。
●丹生川上神社(金木町喜良市千苅)
1855年建立。
●立野神社(金木町喜良市桔梗野)
1672年再建。
●稲荷神社(金木町嘉瀬字上端山崎)
1664年建立。
●八幡宮(金木町嘉瀬字萩元)
1572年建立。寛文2年再建。
●磯崎神社(金木町中柏木字鎧石)
1342~4年建立。明治6~8年は立野神社に合祀。
元和8年に勧請。柏木山大霊院。1614年社殿消失。天保6年再興。1622年再建立。大右衛門堰・白毛堰開削。
●稲荷神社(板柳町掛落林字宮本)
水除堤がある。天保年間に枝川母堰の水下に編成。天保3年創立の飛竜宮。明治6年稲荷神社と改め海童神社に合祀。
●八坂神社(板柳町夕顔関字長田)
寛永2年(1625)建立。元正観音堂。永山六左衛門が建立。明治6~8年に五林平村の八幡宮へ合祀。
●八幡宮(板柳町常海橋字駒田)
享保4年創建。
●八幡宮(板柳町五林平字細田)
承応3年に当村の百姓打越常左衛門が建立。
●八幡宮(板柳町三千石字二潟)
天保年間に三千石堰・藤崎堰の水下に編成。
●八幡宮(鶴田町境字高田)
1663年建立。藤崎堰・三千石堰の水下。
●八幡宮(鶴田町胡桃舘字池田)
西はくるみ館岸、南は大野甚右衛門知行之岸迄。天明3年凶作以後荒地。天保5年洪水被害。天保年間に浅瀬石川から取水する枝川母堰と平川から取水する枝川足水堰(現鶴田堰)の水下に編成。
●闇おかみ神社(鶴田町沖字岡田)
1684年建立。天保年間に小阿弥堰水下に編成。
●稲荷神社(つがる市柏下古川字絹川)
享保元年創立。1716年勧請。
●二柱神社(つがる市稲垣町沼館字友開)
享保3年創立。宝暦2年に稲荷神社を合祀。大正5年「天満宮」から改称。天明の飢饉の影響を強く受ける。岩木川と田光沼に注ぐ出崎放水との間の平坦地。
●熊野宮(中泊町豊島字豊本)
1700年建立。
●八幡宮(五所川原市七ツ館字虫流)
1655年~建立。明暦年間再建。広田堰を利用。
●熊野宮(五所川原市種井字鐙潟)
1687年建立。五所川原堰利用。元禄11年岩木川洪水にて冠水。
●八幡宮(五所川原市鶴ヶ岡字鎌田)
1656年建立。岩木川・十川の氾濫原にて、かねてより用水堰・水除堤の整備が必要な地。元禄11年岩木川洪水にて冠水。岩木川堤防に漆木を植林。天明元年正月に洪水にて堤防決壊。寛政10年の洪水にて堤防決壊にて冠水。この町の歴史は開発と洪水の繰り返しである。
●胸肩神社(五所川原市藻川字村崎)
1656年建立。明暦2年。弁財天。元禄11年岩木川洪水にて水除堤破損にて冠水不作。元文5年不作。安永4年岩木川堤防に漆木等を植林。安永8年、同9年、寛政10年に洪水で堤防決壊、田畑全冠水。
●高おかみ神社(五所川原市長富字竹崎)
1807年建立。元飛竜宮。明治3年改称。飛竜宮は文化14年新岡家の館神にて勧請。
●八幡宮(五所川原市沖飯詰字帯刀)
1655年建立。明暦元年再建。天明2年凶作。
●闇おかみ神社(五所川原市神山字鶉野)
1656年建立。明暦2年創立の観音堂。明治6年改称。長橋溜池を築造。天明3年大凶作にて荒地。
●八幡宮(五所川原市唐笠柳字皆瀬)
広田堰を利用。元禄11年に洪水による堰破損。修復はたびたび行なわれた。
●金比羅宮(金木町蒔田字桑元)
1782年建立。岩木川右岸。
●三柱神社(金木町川倉字林下)
●熊野宮(金木町喜良市字千苅)
1584年建立。長利竹斉が社司。大正12年再建。明治6~8年に立野神社に合祀。
●丹生川上神社(金木町喜良市千苅)
1855年建立。
●立野神社(金木町喜良市桔梗野)
1672年再建。
●稲荷神社(金木町嘉瀬字上端山崎)
1664年建立。
●八幡宮(金木町嘉瀬字萩元)
1572年建立。寛文2年再建。
●磯崎神社(金木町中柏木字鎧石)
1342~4年建立。明治6~8年は立野神社に合祀。
コメント
コメント一覧 (2)
これ面白いですね
ゲーム好きの私としては
「クエスト」を受け取ってしまったみたい
来年このクエ達成しないといけないかもしれない
yuki
がしました