長勝寺三門ほか建造物群の防災設備設置にあたり、平成24年5月1日~6月29日にかけて、史跡地地下遺構の発掘調査が行われ、墓所が発掘されたとのことで行ってきました。場所は知る人ぞ知る、かつての太平中学校・太平高校跡地です。昭和21年4月に曹洞宗宗務庁指定壇林(僧侶の養成機関・学問所)として、太平中学校と太平高校がこの付近に開校され、同43年まで多くの僧侶を養成したそうです。この学校の存在も現在の禅林街の歴史には欠かせないものですね。
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発掘前の写真。
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掘り込みは上面が約4m四方で深さは表土から約4m。掘り込み内には二重の木枠が確認されたものの、遺骨を納めた木棺は発見されませんでした。発見された木室は最下層に胴木を南北(15本)及び東西の2段(高さ40cm)積みとし、その上部に角材を井桁状に7段(高さ1.3m)積み、約2.1m四方の空間を設けています。
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その内部には約1.3m四方の空間を設けて木槨を作り、その間に多量の木炭を敷き詰めています。板の継ぎ目にはアスファルトと思われる樹脂を塗布し湧水対策とし、木槨最下部には石灰を敷設して酸化を防止。
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木槨内部からは櫛4本、もとゆい1束、縄2巻、和紙に包まれた鉄製剃刀1丁、墨書のある和紙1包、鉄製和鋏1丁、砥石1丁、鉄製箸1膳、竹製箸入れ1本、髪を包んだ和紙1包が出土。これらは副葬品で埋葬の儀式に使われた道具と考えられます。
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墓所の埋葬者を特定する直接的資料はないのですが、その規模や構造から藩主クラスと想定されます。また、遺骨を納めた木棺がなかったことから改葬された墓所となります。
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この土地利用の歴史を辿りますと、古くは松前志摩守(徳広)墓及び水野監物墓(久留米藩重臣)、昭和21年に太平中学校。水野監物は改葬の記録がなく、松前徳弘は明治3年に改装された記録があることから13代藩主松前徳広と判断されました。
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松前徳広。
天保15年(1844年)3月14日、第11代藩主松前昌広の長男として福山城で誕生。慶応2年(1866)に13代藩主に。明治元年(1868)11月、箱館戦争による旧幕府脱走軍の攻撃を受け福山城・館城陥落。徳弘は11月19日に家族・重臣らと津軽海峡を渡り、21日に平舘村に到着。以後弘前藩の庇護のもと行動し、23日に弘前の薬王院に入るも、肺結核を患っており、29日に同院で病死。松前藩主家が代々曹洞宗であることから長勝寺へ仮埋葬。その後、官軍が松前藩領を回復し、若殿様が福山へ帰ることになり、父の遺骸の改葬を長勝寺へ掛け合いましたが断られ、弘前藩の家老が再度掛け合うも断られ、最終的に長勝寺本寺の総持寺に交渉し引き渡されることに。
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明治3年9月12日に長勝寺から発棺。土と遺骸を納めた棺をそのまま運搬したためはかどらず、10月9日にようやく松前に入り、遺骸を福山に遷し、大書院に安置した後、法憧寺に埋葬されます。
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