南横町と言ったらみなみ亭で肉だよね!
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(*゚∀゚)=3ハフンハフンッ
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仕切り直し。
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南横町。北の和徳町と南の南柳町を結び南北に走る町。東は萱町、西は和田町及び北柳町。延宝5年の弘前惣御絵図では南は東長町南横町、北は東長町北横町として町割り。東長町南横町には30軒の屋敷割りがあり、薪絵師などが居住。
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宝永2~4年の行なわれた郭内武家屋敷の郭外移転により、勘定奉行の算者30名、足軽目付16名、その他の下級藩士55名等多くの藩士が移転しました。文政年間の和徳町絵図では町内は1丁目と2丁目に分かれ、町屋56軒などが見られます。
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明治22年弘前市に所属以後、商店と住宅が混在した町でしたが、明治30年に北横町に遊郭が移転してからは飲食店なども作られました。大正14年には錦館という映画館もできましたが昭和2年の遊郭からの出火による大火で焼失。後に再建されて昭和座となり、第二次世界大戦中には日本劇場と改称。戦後はキャバレーやカフェなどもできましたが、昭和32年の北横町の遊郭がなくなると共に姿を消していきました。
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坂本町。南の土手町と北の南横町を南北に結ぶ道筋の町でしたが、町割り進行に伴い、山下町、北瓦ヶ町、南柳町によって分断され、中ほどは田代町、南は南瓦ヶ町となります。
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正確な町割りの年代は不詳ですが正徳年間と考えられています。享保6年町割図では武家屋敷町、享保3年の御家中町割りには坂元丁とあります。明治34年私立弘前女学校が元大工町から移転し、校地の拡張とともに町の大部分は文政年間以降に消滅しました。
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南柳町。江戸期は柳町で、寛政年間以後に南北に分かれたと考えられています。延宝5年の弘前惣御絵図では田地でしたが、宝永2~4年の郭内武家屋敷の郭外移転に伴い成立。寛政5年には御家中潰町。明治22年弘前市に所属以後は小さな住宅街としてほとんど変化することなく現在に至っています。
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梅の湯です。
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何ともレトロも雰囲気がたまらないのです。
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特にこの小路がいいですよね。
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ちなみにこの梅の湯の隣にはかつてマリオン劇場という映画館がありました。現在は高層マンション。
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藤寿しと寿司大蔵があります。
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藤寿しは昔からあった気がしますが大蔵はわかりません。
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1937年創業の武田食品工業。
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弘前納豆!!
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2011年…健康上の理由と後継者難により74年という歴史に幕を下ろしました。
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弘前市民にとっては本当に残念なニュースでしたよね。
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あけびづる細工の宮本工芸。
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津軽情張り鋸やの田中鋸や。
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萱町。
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萱町は、弘前城の東に位置し、正徳元年(1711年)に南横町の新割り屋敷としてつくられ、主に下級武士が住んでいました。萱町の町名の由来は、町割以前は田園地帯でカヤが群生していたことによると伝えられています。
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