
さて、今回は案内地図でいうと8~12番付近一帯を主に写真にて紹介したいと思います。

この赤倉霊場案内地図だけが頼りなんですが、これ以上の説明がないのです(笑)

せっかくなので菅江真澄も記している一つの伝説をここに書きたいと思います。



延暦15年(796)に坂上田村麿が蝦夷を征服されたころは、この山の名を阿曽閇(あそべ)の森といって怪鬼が住んでいた。これを討ち滅ぼそうと、軍勢をだしてわけのぼって行かれると、怪鬼は行方も知れず姿を隠してしまった。


それから多くの月日を経て、近江の篠原の国守であった花輪某という方が、この討伐に向かうことになり、生が浦に船をつけ、間山の城にこもって様子を伺っていると、ある夜の夢の中で「このあそべの鬼に勝とうというならば、万字のかたち、錫杖のかたをつくり、それを旗さしもののしるしとして、麓からおしよせよ。怪鬼は赤倉という岩木山の背後に隠れているが、その名も万字、錫杖といって、妖術も力も、このうえなくすぐれているものだ」と神のお告げがあった。


花輪は喜んで、ひたぜめに攻めのぼると、鉦鼓におびやかされて、万字、錫杖ともに妖術を失い、ぼんやりとして、おそれおののきながら出てきたのをとりこにして、討ち平らげなさった。万字、錫杖はいまからのちは、決して人に災をしないと誓いを立てたという。


また別の伝説として、山城の国篠原の花野長忠の長男花若君が、住吉明神の夢想のままに、岩木山の鬼を討ち滅ぼし、また大嶽丸の一族であそべという鬼が、善知鳥前のかけはしのあたりにある岩屋に隠れ住んでいたところを討ちとめられたという。



その万字、錫杖らの子孫であろうか、今も大人というものが岩木山の北赤倉の岩屋に住んでいて、時に見かける人がいるという。


また、あやしい物語であるが、村長太田藤左衛門の家に、鬼のへそというものを、遠い先祖からもち伝えており、その家には上窓がなく、また節分には豆まきをして鬼を追うこともなく、代々過ごしてきた。


一代堂。



こちらには力士と行司がいました。


鬼がいる堂です。相馬堂奥之院(開祖相馬ヨシ、昭和30年頃建立、昭和48年再建)。



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