昭和42年弘前市立和徳小学校4年生の松山由美さん(現中村由美さん)が安全な通学路確保のために、和徳ガードの窮状(ガード脇のコンクリート壁にぴったりと体を寄せないと車にひかれそうになる等)を訴えて当時の竹内青森県知事に手紙を出しました。
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それがきっかけとなり、昭和44年、旧国鉄奥羽線ガード下に歩行者専用地下道が完成。完成した地下道は「ゆみちゃん道路」と名付けられ、約30年に渡り和徳小学校の児童を守り続けてきました。
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しかし、"守り続けた"にも係らず、私たちの世代では、ゆみちゃん道路という変わった命名のせいか、はたまた和徳ガードの交通が本当に危険だったせいか、「ゆみちゃん道路のみのりのトンネルはかつて和徳ガードでひき逃げされたゆみちゃんの霊が彷徨っている」、「深夜の和徳ガード下にはゆみちゃんという少女の霊が現れる」などという噂が絶えなかったのです。いくつかの幼き命を間接的に救ったであろうゆみちゃんに対し何て失礼な噂でしょう(笑)
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当時の名残りを僅かに残しています。確かに入口にはこの「もつ焼き川六」さんがありました。当時は和徳小学校の皆さんが、下校時にもつ焼きで1杯ひっかけて帰っていたのかも知れません(憶測)。
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現在はヒートポンプ式融雪歩道が両脇にある「みのりのトンネル」となっています。
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かつてのゆみちゃん道路のトンネル名と変わっていませんが、大変立派なトンネルとなりました。
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H2~18年度の事業期間、総事業費約118億円をかけて完成。
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開通式のテープカット時にゆみちゃん本人が現れた時、変な噂を信じていた方々はさぞかし狼狽したことでしょう(笑)
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こちらはかつて使われていた最急勾配7%の和徳ガード。
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現在も使われているのですが遠回りです。バスはこちらを利用しているみたい。
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「三上牛乳店直営販売所 ミルクハウス」はなくなり、この交差点にあった歩道橋も無くなりました。
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歩道橋が無いことにこんなに違和感を覚えるなんて。
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より安全で便利な道路が整備されていくことはとてもいいことだと思いますよ。
一方で古き良き小路がどんどん失われていくのは寂しい気もするんですよねぇ。
人間ってわがまま(笑)
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【追記】設置された案内板「ゆみちゃん道路」と「みのりトンネル」命名の由来
『昭和42年9月、弘前市立和徳小学校四年生の松山由美さん(現姓中村さん)は、「交通事故から私たちを守ってくれる安全な通学路を作ってください」と弘前市和徳ガードの窮状を訴えて、当時の竹内俊吉青森県知事に次のような手紙を出しました。「私は和徳小学校四年生の松山由美です。私の家から学校に行くには、どうしてもガードを通って行かなければなりません。このガードは少し雨が強く降ると水が流れなくなって、五十センチメートルもたまってしまい、歩いてそこを通る人々はたいへんこまっています。車は水をこいで行けますが、私たちは全然行かれなくなります。朝ガードまで行って、水がたまっているとガードからまたひきかえして、もう三十分もかかる回り道を通らなければならなくて、学校に遅れてしまいます。だから朝起きて、雨が降っていると、泣き出したいほど悲しくなります。また、バスとバスや大きなトラックなどがすれちがうときなどは、わきのコンクリートにぴったりと身体を寄せないと、ひかれそうになります。こんなガードを、なんとか私たちが安心して通れるようにして下さい。お願いします。」切々と現状を訴えた手紙を出したことがきっかけとなり、旧国鉄奥羽線ガード下に歩行者専用地下道の建設計画が立てられました。そして昭和四十三年、年度内着工が決まりました。完成したこの歩行者専用地下道は、「ゆみちゃん道路」と名付けられ、約三十年にわたり和徳小学校の児童たちを激しい交通の往来から守り続けてきたのです。その後、青森県は平成二年から弘前市中心部と城東地区を結ぶ新たな都市計画道路として3・3・3号下白銀町福村線の整備計画を進め、この度完成の運びとなりました。平成十八年十一月二十二日設置』

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