正保3年(1646)の津軽弘前城の絵図では、城北は足軽町・歩者町・小人町・禰宜町および町屋に町割りされています。正保年間(1644~47)には城下に武家屋敷537軒があります。
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その後の慶安2年(1649)の弘前古御絵図によれば、城北には亀甲町・御小人町・博労町・禰宜町があり、下級武士や馬喰、神官、屋号のある商家(亀甲町)が居住し、博労町には牢屋敷が設置されていました。
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この城北地域の町の構成は幕末まで大きな変化はありませんでしたが、藩士土着令による藩士の移動と土着令廃止による移動で、比較的身分の高い藩士も町内に屋敷を持つようになりました。
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弘前城の北側、現在の若党町・馬喰町・小人町の辺りは仲町と総称され、御家中屋敷と呼ばれていたところで、今でも武家屋敷の遺構が明確に残り、板塀やサワラ垣を配し、黒塗りの医薬門と合わせて武家屋敷の旧姿を現代に伝えています。
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「弘前市仲町伝統的建造物群保存地区」
弘前市大字馬喰町の全域
若党町及び小人町の一部
面積約10.6ヘクタール
指定年月日昭和53年2月27日
選定年月日昭和53年5月31日
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弘前は慶長8年(1603)津軽藩初代藩主為信公が計画し、二代信枚公によって同16年に築かれた城下町です。城郭は、四代信政公が変革するまで、城の追手門(表門)は亀甲門とされ、正面を北に構えていました。
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保存地区は、この追手の守護のため藩の重臣の師弟を配備した数ヵ町の侍町の一区画にあたり、藩政時代を通じて重要な役割をはたしてきたところです。
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藩政時代の武士住宅もさることながら、主屋前麺に坪庭を持つ屋敷の地割りが良く残り、昔ながらの門や塀垣が、伝統的な町並みを形成しているところから、貴重な歴史的文化遺産として、国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けたものです。
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車一台ほどの道幅とサワラ垣がいいですね。
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仲町緑地。
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非常に居心地のいい緑地公園です。
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大久保堰の水を取り込める仕組みになっています。
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武家屋敷の雰囲気も損なわない造りがいいですね。
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寛政年間の地割りは道路側に石で表示。
橋も立派。
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ここにも武家屋敷の案内板がありました。
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この公園のすぐ斜め向かいに「牢」の文字。
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江戸の古地図ではこの公園の向かいに淡嶌神社があり、斜め向かいには監獄がありましたが、昭和10年古地図では既にどちらも残っていません。残っていても怖いけど(笑)
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牢屋は廃藩置県によって監獄となりました。明治には弘前監獄支署に。そして昭和にはNHK弘前放送局がこの地に開局。
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その後はNHK宿舎が建てられました。
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「馬喰町 (ばくろちょう)」
当初は「籠町(かごまち)」と呼ばれていましたが、馬の鑑定、医療や売買を行う「博労(ばくろう)」が住んでいたことから博労町となりました。元禄年間からこの地に武士が居住するようになり、町名も今の書き方になったとされます。
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「若党町 (わかどうちょう)」
当初は「歩者町(かちのものちょう)」と呼ばれ、慶安年間(1650年頃)は「御陸尺町(おろくしゃくまち)」と改まりました。「陸尺」は乗り物を担ぐ者などです。元禄年間からこの地に武士が居住するようになり、現在の町名になりました。「若党」は武家の付き人のことです。
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「小人町 (こびとちょう)」
当初は「御小人(雑役)」の居住地区で、現在の若党町の東半分も含んでいました。元禄以後、若党町と同じように武士の居住地に変わりましたが、町名はそのまま残されました。
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