弘前市百沢字東岩木山

私が参考にしてきた加藤慶司著の「津軽における鳥居の鬼コ」においてこの鬼を一般型鬼として鬼コの1つに数えています。しかし、ここの鬼に関してはこれまでの鬼コと姿が明らかに異なります。確かに鳥居ではなく軒下に置かれた鬼はありましたが、かつては鳥居にあったのではないかと思わせる扱いです。一方で、この鬼は当初より拝殿に設置されるのが前提の造り。そして体はなく顔のみです。

これまでの鬼は岩木川(岩木川は白神山地の雁森岳が水源で、かつては弘前川・大川と呼ばれ、後に岩木川と改称したもの)、平川(坂梨峠西麓が水源)、十川、旧十川といった津軽平野から十三湖に至る河川の地域に設置されていました。歴史上の記録でも非常に河川の氾濫に悩まされた地域には特に鬼が集中しています。岩木川中下流域は特に軟弱な泥炭層が広がっているのですね。

一方で赤倉山と言えばかつてよりある鬼神伝説。製鉄にまつわる鬼神太夫伝説、鬼の土俵、巌鬼山神社、鬼神社の鬼伝説…ここの鬼も、巌鬼山神社の鬼も、鬼神社の鬼も顔のみです(但し、赤倉山神社と巌鬼山神社では時代が異なりますが)。

これら岩木山の鬼と鳥居の鬼、はたまた鬼神社に由来する角のない鬼等との関連は少なからずあるかも知れませんが、鳥居の鬼コシリーズに入れるのは個人的にちょっと違う気がするんですねぇ…赤倉山神社の鳥居にあるならまだわかりますが、多数の堂のうちの1つに過ぎませんし、赤倉山霊場の性質と時代背景を考えても鬼コと分類するのはちょっと厳しいです。それに加えて面のみならず、鳥居にもいないとなっては、鳥居の鬼コと捉えるのは強引な気がしませんか?そして何よりも問題なのはお尻がないってところ!!(←えっ!?そこ!?)

ちなみに津軽藩日記によると寛文6年(1666年)5月に大干ばつに見舞われて田畑は壊滅的状況なったと言います。その際に様々な雨乞いを行ないましたが効果は無く、藩命により赤倉山での山伏たちによる祈祷が行なわれました。すると念願の雨が降り出し、それにより津軽藩では赤倉山の鬼神に非常時に頼ることになります。
また、私が愛読している菅江真澄の「津軽の奥」にて、菅江が岩木山山頂にて次のように語っています。
「北の麓には鬼沢村の鬼神の祠があり、そこに五尺あまりの鍬がある。これは、ここに田をつくろうとして水乞いの祈りをしたとき、一夜のうちに山の水が逆に流れでて、山田にもせきができてはいった。そのひいたあまりの流れは赤倉に落ちてゆき、行方はどことも知れなかったという。十腰内の観音の森、大石大明神などの神社もあった。すべてこの岩木山の東面は、百沢、高岡、山の尾は弘前へとさがり、岩木川がめぐっている。」
また、私が愛読している菅江真澄の「津軽の奥」にて、菅江が岩木山山頂にて次のように語っています。
「北の麓には鬼沢村の鬼神の祠があり、そこに五尺あまりの鍬がある。これは、ここに田をつくろうとして水乞いの祈りをしたとき、一夜のうちに山の水が逆に流れでて、山田にもせきができてはいった。そのひいたあまりの流れは赤倉に落ちてゆき、行方はどことも知れなかったという。十腰内の観音の森、大石大明神などの神社もあった。すべてこの岩木山の東面は、百沢、高岡、山の尾は弘前へとさがり、岩木川がめぐっている。」
雨乞いと洪水…相反しますが水との関りが深いですね。
コメント