現在は愛宕神社境内ですが、昔の津軽為信の陣所跡地になります。
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地蔵堂が神仏分離令にて愛宕神社になりました。愛宕といえば勝軍地蔵で、戦国時代には武家の信仰が強かったといいます。また、秋葉神社と共に火伏せの神としても知られていますね。
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かつては高木館、高木地蔵館とも呼ばれています。当時の城主は高木李平、津軽為信。
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南北朝時代に高木佐門李平が居城としました。
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高木地蔵館の名が天正13年(1584年)の記録に残っています。
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天正年間(1573~92年)初期、浅瀬石城主千徳政氏が津軽為信と同盟を結び南部氏に叛旗を翻すと、天正13(1585)年、南部信直は千徳氏討伐に動きます。
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宇杭野の合戦では信直を撃退したものの、この合戦で為信が援軍を出さなかった事により後の不和の原因に。
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慶長2(1597)年2月、津軽・千徳氏の同盟が破綻すると為信は浅瀬石城攻略。
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その際に為信は千徳氏の後詰のため自ら出陣し、陣所を高木地蔵館に構えたとか。
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為信は境内にあるケヤキに曼字(卍)の旗を掲げたといいます。
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そのケヤキは周囲10.6m余の巨木となり、人々は千年木と称していましたが明治44年10月22日に突然倒伏したといいます。
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境内には夫婦木と呼ばれる25mほどのケヤキがありました。
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スギとケヤキが根元から1.3mの高さで癒合しており、夫婦和合、縁結び、子授けの神木として信仰が厚いそうです。
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境内と隣地からは刀剣や槍の矛先などが出土していることから、陣所とされた当時の激戦を物語ります。
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また境内隣地畑や東南方の李平領との境からも穴開銭が多く出土しており、広範囲に祠堂があったと思われます。
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首を洗った井戸と言い伝えられています。
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首実検の際に首を乗せた石!?
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慶応元年に庚申塚にしたとの話も。
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庚申塚は年代不詳のものや昭和6年のものがあります。ちなみに尾上の庚申塔について非常に詳しい文献が平川市尾上図書館(平川市役所生涯学習センター)にあります。白戸金治郎氏の「ふるさとのいしぶみ」という著書です。面白いですよ。
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【愛宕神社の由緒】
御祭神は軻遇突智命。延暦年間に坂上田村麻呂が猿賀神社を建立した当時に髙木に一社を建立し、武運長久を祈り勝軍地蔵と唱え軍神として祀ったとされます。天正13年4月4日、南部勢の浅瀬石城攻めの折、大浦為信が自ら浅瀬石城の後詰めとして、同4月11日髙木村勝軍地蔵堂に陣営し、境内にある欅に卍の旗を掲げました。また、慶長2年2月に大浦為信が浅瀬石城主千徳政康を誅罰したときに、旗本を当神社の境内にとどめて陣営となし、陣営中勝軍地蔵へ武運長久を祈ったともいいます。藩政時代末に藩造船用材として境内の5本の欅の大木のうち3本が伐採されました。このとき作事指図方熊谷林蔵が大欅の一片で愛宕宮と書き記しました。軍船安全と武運長久の願いが込められた額が奉納されています。祭日は旧6月24日(現7月24日)。猿賀神社の末社で明治以降独立して村社(明治3年神仏分離令により愛宕神社に改称、同6年尾上村の七柱神社の相殿として移転するもほどなく復社)。かつては愛宕宮、 愛宕権現、 高木山堂などと呼ばれてきました。神仏分離以前にあった将軍地蔵の蓮華の台座は境内裏の土中から出てきて堂内に飾られています。昭和54年9月18日社殿移転修理完了。境内社は竜神宮(昭和54
年11月改築、御祭神闇淤加美神(高おかみ神。水の神、雨乞い、止雨、灌漑、養蚕の守護神))。
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※首実検…配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級の身元を大将が判定し、論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業。本当に申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもあります。
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