相馬村紙漉沢にあります。
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この真っ直ぐの参道の突き当たりの山です。
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あの山の頂上を目指して出発です。
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最初の鳥居からの階段。
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これがなかなかの急勾配。
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季節によるでしょうが苔でとても滑りやすくなっていたので注意です。
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案内版より…
伝承によると、この宮は大同2年(807)坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、宝龍権現をまつったのがはじまり。
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元中2年(1385)長慶天皇が身を寄せておられた浪岡の館が南部信政に攻められ、天皇は傷を受けられ供奉の人々と共に新田宗興が守っていたここ紙漉館に入られました。11月10日の夜のことでした。
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天皇は応永10年(1403)6月1日、この地で崩御、おん年60歳でした。
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皇子盛徳親王は権現の跡地一万坪に新たに寺を建て、上皇廟堂と称して世々子孫が守護してきたものである。(石田家文書より)
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古くは宝龍権現宮、上皇堂、法龍宮、龍田神社の称があり、昭和40年に上皇宮と改称。※弘前市年表では昭和41年に紙漉沢龍田神社を上皇宮に改称とあります。
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この山上にはかつての長慶天皇御陵墓参考地があり、相馬村には長慶天皇にまつわる多くの伝承・遺跡・古文書等が残っています。
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参道入口に大町桂月の碑文がありました。
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『そのかみも斯くやとばかり提燈の光かよわき御陵の山』
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本殿の横に坂があります。
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300段弱ほどでしょうか…数えていないのでわかりませんが…
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勾配があるので中々の運動です。
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距離にして150m程の山道を登りますと長慶天皇御陵墓参考地があります。
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正確に言えば、長慶天皇御陵墓参考地と指定されていましたが、昭和19年に京都嵯峨の嵯峨東陵(慶寿院跡)に治定されたため廃止。
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長慶天皇の御陵と称する墳墓は全国20箇所以上に点在しているとか。
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しかし…柵に囲まれた空き地にしか見えません…あっ失礼(笑)
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上皇宮社務所。
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社務所はよく見ると公民館兼務でした。
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そして社務所の横には上皇宮文庫がありました。