文明元年(1469)に如来瀬から現在地に遷座。応仁の乱の兵火で一時衰退しましたが、津軽為信から崇敬され厨子、神像を寄進し歴代の津軽家の祈願所に。
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熊野宮の創建は不明ですが慶長20年に樋口村に建立された熊野宮で下町の総鎮守(氏神様)であると伝えます(※馬屋町だけは弘前城郭内にあったため田町にある八幡宮が氏神でした。大正9年に上白銀町から稲荷神社が西ノ郭に移転し、更に昭和51年に文化庁の指導で八幡宮境内に移建したのを機会に、馬屋町が熊野宮に帰属し氏神とするようになりました。)。かつては「熊野三所飛龍大権現」といい、俗に「袋の宮」と称されていました。御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、速玉男命、事解男命、罔象女命。古くは弁天様もあったといいます。
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門外村(弘前市門外)の新宮と八幡村(弘前市田町4丁目)の本宮(熊野奥照神社)とともに、熊野三所権現を模したものとされ、ここは那智宮に相当するものとして造営されました。
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現在の熊野宮本殿は、棟札から慶長二十年(1615)の建立と考えられています。
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三間社流造で、向拝は一間、象鼻や懸魚の彫刻に優れた手法を示しており繋虹梁などにも古い形式が残されているのが素晴らしいです。
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簡素な造りの中に、古い形式をよくとどめた熊野奥照神社本殿と一対となる貴重な遺構。
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※向拝(こうはい):社殿や仏堂の正面に本屋から張り出して庇を設けた部分。参詣人が礼拝する所。一間は6尺で約1820mm。
※繋虹梁(つなぎこうりょう):梁(はり)の一種。虹のようにそりがあることに由来する。母屋に掛けたのを大虹梁、廂(ひさし)の柱をつなぐ短いものを繋(つなぎ)虹梁、唐様建築などで高さの異なる柱をつなぐ湾曲の大きいものを海老虹梁などという。
古地図を見れば現在普通の道路になっている参道に途中2つの鳥居があったのが見てとれます。
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こうやって地図で見れば本当に長勝寺のすぐ裏手だとわかりますね。
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境内の雰囲気もどことなく厳かで好きです。
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樋の口の標柱。
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天文年間(1532~1555)の史料に「樋口」の地名が見られ、延宝二年(1674)などの岩木川の堰き止めにより、その支流であった樋ノ口川は田畑に姿を変え、弘前城下からの入作者も多かったところでした。
※ちなみに熊野宮のある場所は現在の茜町になります。
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※2度目の参詣記事もどうぞ。