世界山岳遭難史上最大の事故。
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雪中行軍が行われたのは、冬季によく見られる典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた時で、日本各地で観測史上における最低気温を更新(旭川で1月25日日本最低記録である-41.0℃を記録)。
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かなり簡単にですが大まかな行程を…
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明治35年1月23日午前6時55分、第八師団歩兵第五連隊雪中行軍出発。
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午前11時30分小峠に到着するも大峠付近から天候急変。
午後6時鳴沢でソリを放棄。
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午後8時田代まで1.5kmの平沢の森にて前後不覚となり雪濠を掘り露営。
1月24日午前2時行軍指導部は帰営を決定。
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1月24日午前3時半馬立場を目指す過程で鳴沢付近のゴルジュに迷い込み、崖をよじ登ることになるが崖を登れず落伍する兵が出ます。ここで最初の犠牲者が出たと言われています。
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1月24日午前8時佐藤特務曹長が田代元湯に至る道を発見したと進言し進路を田代に変更。
駒込川の沢に到達したところで進言が誤りと気付きますが前後不覚状態にて遭難。
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(現在の田代元湯・廃湯)
1月24日夕方頃鳴沢付近の凹地で露天露営。体感温度は-50℃。前日より不眠不休、絶食状態にあったため多くの将兵が昏倒、凍死。
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1月25日午前3時馬立場を目指し出発。鳴沢付近に辿り着くも再び道を見失います。
一説ですが、ここで神成大尉は「天は我らを見放したらしいです。部隊をここで解散、各自勝手に青森へ帰るように」といった命を出し、多くの兵士が発狂しながら死亡していきました。
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1月26日明け方に出発。この時点での生存は60~70名。部隊は1/3にまでなっていました。午前11時暴風雪。気温は-14℃。
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1月27日生存者30名。午前10時頃、仮死状態の後藤房之助伍長が発見され遭難の詳細が判明。
5月28日に全遺体が収容。
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210名のうち生存者は17名。内重い凍傷で入院中に6名が死亡。残った11名も倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長、及川一等兵以外は両手両足のいずれかあるいは全部を切断する凍傷を負いました。
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救援隊が発見した時、仮死状態で佇立していた後藤房之助伍長の像。
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当時の装備と現在の自衛隊の装備。試着できます。
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もちろん試着してみます。三十年式歩兵銃レプリカと共に。
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露営。各小隊で幅2m、長さ5.5m、深さ約2.5mの壕を掘りました。しかし天井を覆うことができず厳しい寒さが襲ってきました。
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午食。凍って食べることができなかったいう。
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ボタンを押すと…
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遺体発見場所のライトが光る…なんか心苦しい。
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明治35年2月1日発行の東京日日新聞と時事新報。
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見出しはそれぞれ「大惨事」、「二百余名の兵士風雪に倒る」。
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遭難始末附録。
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奥玉村凍死軍人葬儀誌。
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イタリア・ミラノで発行された新聞「ラ・ドメニカ・デル・コリューレ」では絵入りで報じられ、海外でも関心が高かった事件と伺えます。
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救助活動は青森連隊、弘前連隊、更には仙台第5砲兵隊も出動。延べ1万人が投入。
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発見された遺体は1体に数人程度をかけて掘り出して哨戒所に運搬。余りに凍りついていたため、粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕けるためでした。
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北海道から弁開凧次郎が捜索に参加し、アイヌ犬を連れてきました。特に駒込川及びその両岸の険しい場所で大変活躍したそう。明治35年(1902)2月15日、遭難事件の活躍の最中、アイヌ犬は八甲田山中で二頭の子を産みます。この二頭(八甲とべんけい)は英霊堂の狛犬となり、現在も210名の英霊を護っているのです。
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及川良平一等卒の遺品(射撃手帳)。
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佐々木霜吉一等卒の遺品(軍隊手帳)。
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雪中行軍に多少の知識があった私でも、資料館を出る頃にはとても胸がつまり心苦しくなりました。
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謹んで哀悼の意を表すと共に、この資料館を一人でも多くの人に知って頂きたい思いにて、この度当ブログに紹介した次第です。
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なお、展示されていない資料もデータベースとなって閲覧可能です。鹿鳴庵(銅像茶屋)にも資料がありますよ。
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●開館時間
9:00~18:00(4月~10月)
9:00~16:30(11月~3月)
●休館日
12/31、1/1、2月の第4水・木曜日
●観覧料金
一般260円
大学・高校生130円
その他無料
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