よく神社の境内の片隅や道端等にある石碑です。

いちいち説明していませんが私のブログにもよく登場します。今回はこれにちょっと触れたいと思います。

昔の暦は十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせた60通りを年日に合わせて占いに用いました。

庚申(かのえさる)もその1つで60日に1度巡ってきます。こういった考えは「壬申の乱」「戊辰戦争」等にも反映されたりしていますね。甲子園球場の完成日も甲子年(大正13年)だそうです。

中国道教の思想によれば、人間の体の中には三尸(さんし)という三匹の虫がおり、庚申日の夜には寝ている間にこの虫が体から抜け出し、その人間の犯した罪を天帝に報告すると云われます(三尸説)。天帝に報告されると罰として寿命が縮められるそうです(中国東晋時代317年著書「抱朴子」による)。よって三尸の報告を防ぐために庚申日は寝ないという行事が広まったのです。

日本における歴史では古くは平安時代に貴族の間で守庚申(しゅこうしん)が流行。

庚申日の夜には碁・詩歌・管弦の遊びを催す「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称する宴をするのが貴族の習いでした(入唐求法巡礼行によれば838年11月26日の条に記録)。平安時代末期には武士にも広がりを見せていきます。

南北朝・室町時代には天台宗系(弘法大師空海が開いた真言密教(真言宗)?)の僧侶により、庚申信仰の仏教化が行われて青面金剛が庚申の本尊であると説かれるようになっていきます。室町時代後期には庚申塔に「申待」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなっていきます。

室町時代後期~江戸時代初期には神道でも庚申の神を猿田彦命と説くようになり民衆へと広がりを見せます。

民衆化により全国で庚申講が行なわれ、日本では庚申信仰は複合信仰となり、全国各地に庚申塔が建てられるようになりました。

仏教では庚申の本尊を青面金剛及び帝釈天、神道では猿田彦神としている場合が多くなっています。大正時代以降は急速にその信仰が失われていきます。

※時代背景はいずれも一説です。
※60年ごとに庚申塔を建てました。
※青面金剛は疫病を流行させる神であり、疫病を防ごうとしたものであるが、なぜ庚申塔の主尊となったのか定かではありません。青面金剛の一般的な造形は、腕が4本又は6本、それぞれの手には、三叉戟(さんさげき)・法輪・剣・弓矢等を持ち、脇には童子を従え、邪鬼を踏みつけ、足元には三猿と二鶏が刻まれています。
※江戸時代に猿田彦大神と結びつけたのは山崎闇斉(儒者、朱子学者、神道家)。
※山王権現は日本の自然信仰。
※60年ごとに庚申塔を建てました。
※青面金剛は疫病を流行させる神であり、疫病を防ごうとしたものであるが、なぜ庚申塔の主尊となったのか定かではありません。青面金剛の一般的な造形は、腕が4本又は6本、それぞれの手には、三叉戟(さんさげき)・法輪・剣・弓矢等を持ち、脇には童子を従え、邪鬼を踏みつけ、足元には三猿と二鶏が刻まれています。
※江戸時代に猿田彦大神と結びつけたのは山崎闇斉(儒者、朱子学者、神道家)。
※山王権現は日本の自然信仰。

※十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金にて、庚申の年日は金気が天地に充満し、人の心が冷酷になりやすいとされたという考えに基づく説もあります(陰陽五行説)。
※「言わざる・聞かざる・見ざる」は三尸に報告させないことに由来(三尸→三猿)。


※庚申塔(庚申塚)はよく道祖神同様行路側に建てられ、塔には道標が掘り付けられたものも多く存在していているのも特色の一つです。
※現在神社の境内等にあるものは、高度経済成長期以降の街道拡張整備工事により、移動して1ヶ所に集められたものが多いです。
※現在神社の境内等にあるものは、高度経済成長期以降の街道拡張整備工事により、移動して1ヶ所に集められたものが多いです。

※庚申講については色々な説や地域性もあるようなので一説としてお読みください。

コメント