
南朝の名族陸奥北畠氏の居城。築城年は不詳。

古くは平泉に本拠をもった藤原秀衡の六男頼衡の後裔が浪岡氏を名乗りこの地に土着し館を築いたのが始まりとされます。

長禄年間(1457~60)、北畠親房の後裔である北畠顕義(あきいえ)がこの地を領するようになり、以後歴代北畠氏の居城となり津軽地方一帯に大きな影響力を持ちました。

顕義は陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍。浪岡城址は顕義から四代目の顕義の代に築かれたという説が有力です。

浪岡城は中世の平城で、約136,500㎡(東西1200m、南北600m)の規模で新館、東館、猿楽館、北館、内館、無名の館、西館、検校(けんぎょう)館の8つ郭があり、幅20m、深さ5m程の2重堀(東舘と北舘の間は3重堀)で囲まれていました。

北畠氏は南朝の有力な武将で浪岡に下向した後も中央との結び付けが強く浪岡城の周りには祇園神社、八幡神社、加茂神社、春日神社など中央縁の社寺を勧請し京都を模した町づくりを建設したと言われています。


戦国時代までは大きな影響力がありましたが永禄5年(1562)、北畠氏の内乱とも言える「川原御所の乱」が勃発すると急速に衰退し天正6年(1578)には大浦為信によって急襲され浪岡城は落城。

浪岡城址は現在でも堀や土塁、郭の形状などの遺構が良好に残っていて国指定史跡に指定されています。

浪岡城址は長年の間、畑や水田として使われてきたそう。それにしてもこんなにも広大なのに、見事なまでに残っているものですねぇ。土地の記憶。

とても広いですけど、説明板や案内のパンフもあるので、それを片手に散策すればとてもわかりやすいですよ。それにしても広い。全体を歩いて回りましたが今回ブログに載せる写真はその一部です。


発掘調査では5万点以上の大量の武器、日用品、農具等々が見つかり、現在中世の館で保管展示しております。



北館は浪岡城主の家臣たちが住み、武家屋敷町がありました。



その柱穴を示す標柱です。

北館中通のたんぽぽが綺麗でした。


内館にある浪岡城址碑。


内館内には不思議な形の木がいっぱい。





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