黒石の土地から生まれた民謡に「黒石よされ」と「じょんから節」の二つがあります。
石名坂から浅瀬石へ続く道路に架けられた橋が上川原橋で、その付近が「じょんから節発祥の地」として知られていますが、その由来となる逸話をご紹介します。
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今から約400年前の慶長2年(1597年)、浅瀬石城主11代の千徳安芸之助政保は、津軽の藩祖大浦為信公に攻め滅ぼされました。その際、千徳家の菩堤寺神宗寺の常縁和尚は、千徳家累代の位碑を持って、城の後方にある深い沢に逃げます。追いすがる軍勢に孤軍奮闘したものの、捕らわれそうになった和尚は、白岩の断崖から浅瀬石川の濁流に身を投じました。その年の夏、川原で水遊びをしていた子どもたちが砂の中から和尚の遺体を発見。村人たちは手厚く葬り、常椽の墓を作り、この川原の一帯を「常縁川原」と名付けました。
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城と城下町を焼かれ、侘しい生活を強いられた村人は、お盆になるとこの川原に集まり、供養をしながら即興のくどき節を唄い、城主をはじめ先祖代々の霊を慰める盆踊りを行いました。このくどき唄が「じょんから節」で、常縁川原は月日と共に上川原と名を変え、「上川原(じょんから)」と呼ばれるようになったと伝えられます。
当時の歌詞も、時代と共に変化し、替歌となり、調子も変って現在の歌詞となり、三味線、大鼓の伴奏と共に現在に残っています。
 
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「じょんから節」
一 ハアーさぁさこれから読み上げまする
津軽浅瀬石じょんから節よ
さてもあわれな落城のはなし
二 ハアー今は昔の七百年前
南部行重城主となりて
伝えつたえて十代あまり
三 ハアー頃は慶長二年の春に
大浦為信大軍率い
城主政保討死いたす
四 ハアー時に辻堂常椽和尚
先祖代々位牌を背負い
高い崖から濁流めがけ
五 ハアーゃがて春過ぎ真夏となりて
村の子供等水浴びすれば
砂の中からあわれな姿
六 ハアー村の人達手厚く葬り
盆の供養をすました後は
昔しのんでじょんから節よ
七 ハァー春は城山りんごの花よ
秋の田の面は黄金の波コ
村は繁昌て家内の笑顔