1336年(建武3年)北朝方の曾我太郎貞光により築城(堀越館)。

場所は門外から堀越方面に旧羽州街道を進むとぶつかるあの三叉路正面の熊野宮。

上の写真はちょっぴり昔。

なぜあの交差点があのような不自然な三叉路になっているかわかりますね?土地の記憶です。

車は神社に入ってすぐの二ノ丸~三ノ丸付近が空き地なのでそこに停めても大丈夫でしょう。

元中年間(1380~92)に八戸南部政光、もしくは三戸南部氏に滅ぼされ、堀越の地も南部氏の手に落ちたものと考えられます。


1611年(慶長16年)、弘前城完成と共に本拠は弘前城に移ったのち、1615年(元和元年)の一国一城令により廃城となります。

大浦為信は旧主南部氏にかわり津軽を平定するにあたり、南部氏の拠点である徳和城、大光寺城、石川城等を攻略する必要がありました。そこで為信は、豊臣秀吉から大名と認められると文禄3年(1594)に敵地の真っ只中とも言えるこの地に堀越城を構えたのです。

これを拠点として石川南部高信の居城である石川城を皮切りに津軽諸城を次々と陥落させ、17年で津軽統一を果たしました。

津軽家中の謀叛が続いた堀越城は近世大名の居城に相応しくないとし、慶長8年(1603)に新城構築を計画。信枚の代に新城弘前城に移城。

二の丸の水堀からは柵状の木列(虎落(もがり))が出土するなどし注目を集めました。

写真はボロ携帯のカメラな上に、雑草が伸びていた時期でしてわかりにくいですけど、見事な空堀が残っています。

本丸は東西80m×南北90mで高さ2mの土塁と幅10mの水堀で囲まれていました。

本丸の東側に二ノ丸が位置し、本丸と二ノ丸を囲むように三ノ丸があります。

本丸跡は熊野神社。御祭神は伊邪那岐神、伊邪那美神。相殿として倉稲魂神。かつては熊野大権宮と称されており、慶長7年(1602)、為信公が勧請。ちなみに貞享4年検知水帳によりますと、堀越村には山伏養蔵坊抱えの熊野社と観音堂、村中抱えの権現堂地と妻神社地がみえます。国誌によりますと明治初年に貞昌寺末寺の浄土宗光昌庵(本尊阿弥陀如来)があります。


土橋の入口が残っています。土塁も見事。


本丸跡地は五角形で3つの入口が確認できました。


1つは確実に後世のものでしょう。2つのうち、どちらが虎口かはちょっと不明。

二ノ丸・三ノ丸は空地となっており、国道7号線により東二の郭は分断されていますが、この付近では西根の物見と称される場所や鍛冶の製鉄滓、建物跡などが確認されています。


三ノ丸の詳細は不明です。堀越城は現在もなお調査が進められているようです。

っていうか草が伸びていない時期に行きましょうね…この写真じゃせっかく立派に残っている空堀感が台無し

『熊野宮 (弘前市堀越)』2016年
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