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長勝寺の隣にある禅林公園の忠霊塔。
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忠霊塔(ちゅうれいとう)とは、近代以降の日本において建造された、国家や君主ために忠義や忠誠をもって戦争に出兵し戦死した者の霊に対して、顕彰または称え続けることを象徴する塔で、西南の役、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満洲事変、支那事変、太平洋戦争、大東亜戦争のそれぞれの戦死者の遺骨を納めます。
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昭和16年(1941)に忠霊塔として着工、昭和20年(1945)完成。戦後である昭和23年(1948)5月9日にタイから送られた仏舎利(真骨二粒)を納めたことから仏舎利塔と名称を変えています。当時、水晶の箱におさめられた仏舎利は小さな厨子に入れられており、それを白象(人形)の上に乗せ、稚児行列が引いて300mの大行列が続いたといいます。奉安供養は百人近くの僧侶によって行われ、導師は曹洞宗大教師中根環堂老師でした。参拝及び見物客は10万人を越えたそう。
GHQによる撤去も免れている理由は終戦直後に名前を仏舎利塔に変えているから。当時は「忠」の字を釈迦の種字の「バク」で覆って隠したといいます。
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太平洋戦争終戦33年を記念してノモンハンや中国、比島など主戦場の土や砂利を持ち帰り、それを壁の材料に使用したとか。岩木川原からも重い石を必死に運んだそうです。これは旧岩木町兼平の産物である兼平石(新法師高館山の東縁部丘陵地から産出する紫蘚輝石普通輝石安山岩)のことでしょう。津軽地方にある鎌倉時代以降の石塔婆の多くはこの石を使用しており、藩政期につくられた石橋、報恩寺に埋葬された11代藩主津軽順承の世子承祐の棺の蓋石、近年では土手町商店街歩道の敷石など様々なものに用いられました。明治32年以降は生産を中止しているそうで、年代的にギリギリですが、仏舎利塔もまた兼平石を用いた代表的建造物として挙げられています。
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忠霊塔の文字は大八師団長菱刈隆閣下の筆によるもの。
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忠霊墓塔誌は錆びている上に、倒れてしまっており、管理は行き届いていない気がします。以前は個人管理でしたが現在は弘前市の管理下。
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中へは入れませんが一般公開されることもあるようです。1階の基室は資料庫と展示場。中央に本尊の釈迦座像を安置しており、周囲は小さな室に分かれており、その中には更に小さな区切りの龕(がん)があります。
かつてはさくら祭り期間中に市内各宗派寺院交替で慰霊供養が行われました。護国神社の大祭(4月30日)との絡みから、4月29日の天皇誕生日に縁者・遺族には夜桜を楽しんで頂き、翌日に護国神社を参拝するという流れだったそうです。現在は行われていません。
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かなり大きいですよね。
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遠くからでもその姿を見ることができます。
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