
創建は延暦年間(782~806)、坂上田村麻呂が東夷東征の際この地を訪れ戦勝祈願の為阿闍羅山山頂に大日如来を安置したことが始まりと伝えられています。






建久2年(1191)円智上人が阿闍羅山山頂から大日如来を蔵館に移し高伯寺を開山、足利尊氏によって指定された全国66ヶ所の安国寺のうちの1つとして寺運も隆盛。ちなみに大安国寺が訛って「おおあんじ…おうわに」になったとも言われています。

丑年の本尊ではないのですが、昔あるお坊様が病気を治していただくように大日如来に祈願したところ、夢枕に現れて「山の麓の温泉に身体を浸すと治る」と伝え、朝目覚めるとお堂の前に牛が寝ていたといいます。牛が案内した先は現在の霊泉大湯で、これが大鰐温泉の始まりと伝えるそう。大鰐から古くから続く丑湯祭りは大日様と牛への感謝の気持ちを込めて行われます。牛がまつられているのはこのような深い理由があったのですね。

弘法大師。※下調べでは弘法大師修行像の後に明治と大正時代の四国八十八ヶ寺巡礼供養塔に挟まれて、大鰐江戸時代最古の笠付六十六部供養塔(奉納大乗妙典経六十六部供養塔、安永2癸巳年4月8日建立、高さ97.5cm、全高118.5cm)があるとのことでしたが見逃したようです。この六十六部供養塔は藩日記に記されている、享保16年に早瀬野山で岡山県の六十六部が亡くなった事件の40回忌供養塔である可能性が考えられます。

ぼけ厄除不動尊。

その後一時荒廃しますが慶安3年(1650)3代弘前藩主津軽信義が帰依し大日如来を京都で修復させ社殿を再建。





明治時代初頭に発令された神仏分離令により弘前城下にあった大円寺がこの地に移り現在に至ります。※弘前大圓寺が末寺の蔵館高伯寺を合併し連光山大圓寺となり移転、後に潮海22世が現在名(神岡山大圓寺)に改名。


本尊の大日如来座像は(本来は阿弥陀如来像ですが何故か古くから大日如来と呼ばれています)鎌倉時代初期に制作されたもので仏師・定朝様式の寄せ木造り、津軽地方最古の仏像として大変貴重なもので国指定重要文化財に指定されています。





仁王門は修繕中でした。


大円寺のすぐ向かいに「はぎかつら」があります。

桂の木に萩の花が咲き、高い香気を持つことで知られている萩桂は、大日堂の開祖円知上人が印度の鷲峯山の霊木の種子三粒を持ち帰って蒔いたものと伝えられます。樹齢七百有余念、赤い花の香りの高貴な大樹になり町民に愛されましたが、昭和18年に落雷により倒れ枯死しました。現在の若木は大正年間に町の有志により採種育成されたものを移植したものです。

菅江真澄が大日如来を訪れた際に、「萩桂とて旧りたる一もとたてり。尚めづらしければこれをあふぎみるに、ちよふる大槻と根は生ひ雑りてあれば、これを槻桂ともいふとか」と記しています。
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