花岡事件そのものについては皆さんご存知でしょうし、ネットでも詳細がいっぱいが出てきますので私は細かく触れません。概要についてはこの記事の最後に軽く掲載しておきます。
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(桜木神社方面に見える煙)
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事件当時の花岡鉱山経営責任者は戦後、東京電力会長、日本原子力産業会議会長になりました。福島第一原発事故にまで繋がっていると言われるこの事件再考のために自らの足で訪れたものでございます。
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産業道路と廃線となった花岡線跡を辿りながら松峰を進みます。
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松峰選鉱所近郊。
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何かかっこいい(えっ?
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花岡鉱山街。スーパーの看板が空しい…。
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周囲は廃墟が多いですね。これもすべて廃墟。桜町は繁華街でした。栄えていた頃を思い浮かべます。
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近くにあった公園。
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久留島公園は鉱山病院前庭跡になります。
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何ていうか…久留島って名もどうかと。
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共楽館跡地です。小坂鉱山でいうところの康楽館。現在は市立体育館になっています。
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集団蜂起・脱走した約8 0 0 人の中国人労働者の内、主力集団の約3 0 0 名が捕まり、3 日3 晩の拷問を受け、1 0 0 人以上がここで死亡。
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共楽館址碑
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中国人を慰霊する女性ブロンズ像
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花岡平和記念館です。
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事件現場の一つでもある花岡川を渡った向こう岸正面に信正寺があります。
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平成22年4月17日、在日本中国大使館の薛剣参事官、日本社会民主党党首で内閣府特命担当大臣の福島瑞穂氏、花岡事件の生存者の李鉄錘さんなどが訪れて、花岡平和記念館の開館式が行なわれました。
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『花岡事件概要』
 昭和19年から20年にかけて、986人(内、途中死亡7人)の中国人が花岡鉱山にあった鹿島組花岡出張所へ連行。彼らは花岡川の改修工事、鉱滓堆積ダム工事の掘削や盛土作業に従事させられ、道具はシャベルとツルハシ、モッコでした。作業所での扱いは過酷なもので、補導員の中には指導の名のもとに激しい暴行を加える者もいて、加えて敗戦直前の時期から国内の食糧事情の悪化が彼らの上 にも重くのしかかり、耐えがたい暴行と空腹で精神に異常をきたす者も出ました。
 「中山寮」に強制連行された979人のうち137人が死亡、更に暴行や栄養不良で身動きできない重症者が多くいました。餓死か、暴行によって殺されるか、という状況の中で、耿諄大隊長ほか7人の幹部は「このままではみんな殺されてしまう。もはや一日も忍耐できない、蜂起するしかない」と考えました。
 寮内の動きを調べ、蜂起は6月30日の真夜中と決定。しかし、計画が知れわたると規制がきかない者もでてきて統制は大きく崩 れ、以後の組織的行動は不可能となりました。とりあえず逃走命令を発しそれぞれ逃げましたが、重症者の一群は神山付近で最初に捕まり、次に身体の弱ってい る一群が旧松峰付近で捕まってしまい、残る主力集団約300人も獅子ケ森山中に逃げ込み抵抗はしたものの、食糧も水も無く力尽き次々と捕らえられました。
 捕まった者たちは7月1~3日と共楽館前広場に炎天下のもと数珠繋ぎに縛られ、座ったままの姿勢でさらされました。3日の夜に雨が降ったため何人かは死なずに済みましたが大勢が亡くなりました。死体は10日間も放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ埋められました。この後も中国人の悲惨な状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡。
 終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れ、棺桶から手足のはみ出ている中国人の死体を見つけ、その日のうちに詳細な調査を開始。こうして「花岡事件」が明らかになっていったのです。
なお、敗戦後に行われたBC級戦犯横浜裁判では、第七分所(秋田県花岡 藤田組花岡鉱業所)から11名が裁判にかけられ、鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、終身刑などに減刑…(引用文)
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