

乳井神社社殿 (旧毘沙門堂)と板碑群の紹介です。

御祭神は武甕槌命、経津主命、天手力男命。


尾上町(現平川市)猿賀神社の別当をしていた由緒ある寺院で、現在も社殿が弘前市指定文化財。「災いの前兆で手水が白く濁る(乳の井)」との言い伝えからこの名前が付いたそう。

菅江真澄は「嘉承山福王寺(毘沙門堂に福王寺とあった。山の号に嘉承という年号の名がついているのは、堀河帝の御代に建てた寺であろうか)と黄金色で書かれた堂の額があった。」と記しています。

参道には歴史深い名水「乳井桂清水」があります。


菅江真澄が「村のはずれに乳井という泉がある。この水が日に二度、三度、真白の色に湧くことがある。そのときは水もうちあふれ、味もたいそうあまい。乳房に病気のある女や、乳のとぼしい女は祈願をこめて、この水をくんで飲むと、誰も願いのかなわないものはないと、釣瓶をさげて汲みながら、ある女が語った。」と記しています。


神仏習合時期の貴重な遺構であるとともに、小屋組の木を縄で結ぶなど、古式の建築様相を色濃く伝えています。

金龍宮。

戸隠神社。


一棟を前後に仕切り内外陣としていましたが、現在は元の内陣を幣殿、外陣を拝殿としています。大工棟梁は竹内彦太夫といわれ、竹内一族は岩木山神社、津軽家霊屋などの普請に携わったことが知られています。

乳井神社の創建は坂上田村麻呂が津軽に7社建立した内の1つで、毘沙門天が勧請され武器が納められたと伝えられます。



承暦2年(1078)に福王寺が開山したことで神仏混合し、戦国時代末期には津軽氏の庇護の元、猿賀神社の別当にもなり寺運が隆盛。



社殿は三代藩主津軽信義が明暦元年(1655年)に毘沙門天堂として再建。元はこけら葺でしたが、文政3年(1820年)の修理の際に茅葺に変更され現在は鉄板葺。



かなり珍しい造りですよね。


明治の神仏分離令により境内にあった仁王門や鐘楼などが撤去され乳井神社と社号を改称。仁王門に安置されていた仁王像は黒石市の浄仙寺に移されました。

境内には板碑群13基、五輪塔1基が残されています。

板碑群は神社境内とその周辺に分布していましたが、神社の墓地の板碑は昭和初期に集められたもの。

鎌倉時代末期から南北朝時代に造立されたと考えられており、年号のあるものは十四世紀初頭のものが多いです。



石材は石英安山岩。




五輪塔は本殿の裏にあったもの。乳井城主の墓塔と伝えられていますが年代が符合せず、五輪塔の年代はその規模や文献史料・板碑の存在から推定すると津軽地方には少ない鎌倉時代の制作と考えられます。
菅井真澄が乳井方面に行く途中、「高畑、枝村をすぎて、左方に糠塚があるが、むかしは蝦夷が住んでいた跡であろうか。道のかたわらに古びた五輪塔の形をした石の卒塔婆があるが、文字ははっきり見えなかった。誰の墓であろうか。」と記していますが、もしかしたらこの五輪塔でしょうか。元々から本殿裏手なら違うかな…。


2016年再訪記事:『乳井神社 (弘前市)』
コメント