イメージ 37
イメージ 20
乳井神社社殿 (旧毘沙門堂)と板碑群の紹介です。
イメージ 36
御祭神は武甕槌命、経津主命、天手力男命。
イメージ 18
イメージ 19
尾上町(現平川市)猿賀神社の別当をしていた由緒ある寺院で、現在も社殿が弘前市指定文化財。「災いの前兆で手水が白く濁る(乳の井)」との言い伝えからこの名前が付いたそう。
イメージ 33
菅江真澄は「嘉承山福王寺(毘沙門堂に福王寺とあった。山の号に嘉承という年号の名がついているのは、堀河帝の御代に建てた寺であろうか)と黄金色で書かれた堂の額があった。」と記しています。
イメージ 39
参道には歴史深い名水「乳井桂清水」があります。
イメージ 22
イメージ 1
菅江真澄が「村のはずれに乳井という泉がある。この水が日に二度、三度、真白の色に湧くことがある。そのときは水もうちあふれ、味もたいそうあまい。乳房に病気のある女や、乳のとぼしい女は祈願をこめて、この水をくんで飲むと、誰も願いのかなわないものはないと、釣瓶をさげて汲みながら、ある女が語った。」と記しています。
イメージ 2
イメージ 12
神仏習合時期の貴重な遺構であるとともに、小屋組の木を縄で結ぶなど、古式の建築様相を色濃く伝えています。
イメージ 14
金龍宮。
イメージ 15
戸隠神社。
イメージ 16
イメージ 17
一棟を前後に仕切り内外陣としていましたが、現在は元の内陣を幣殿、外陣を拝殿としています。大工棟梁は竹内彦太夫といわれ、竹内一族は岩木山神社、津軽家霊屋などの普請に携わったことが知られています。
イメージ 21
乳井神社の創建は坂上田村麻呂が津軽に7社建立した内の1つで、毘沙門天が勧請され武器が納められたと伝えられます。
イメージ 25
イメージ 26
イメージ 27
承暦2年(1078)に福王寺が開山したことで神仏混合し、戦国時代末期には津軽氏の庇護の元、猿賀神社の別当にもなり寺運が隆盛。
イメージ 29
イメージ 30
イメージ 31
社殿は三代藩主津軽信義が明暦元年(1655年)に毘沙門天堂として再建。元はこけら葺でしたが、文政3年(1820年)の修理の際に茅葺に変更され現在は鉄板葺。
イメージ 28
イメージ 32
イメージ 34
かなり珍しい造りですよね。
イメージ 23
イメージ 24
明治の神仏分離令により境内にあった仁王門や鐘楼などが撤去され乳井神社と社号を改称。仁王門に安置されていた仁王像は黒石市の浄仙寺に移されました。
イメージ 38
境内には板碑群13基、五輪塔1基が残されています。
イメージ 3
板碑群は神社境内とその周辺に分布していましたが、神社の墓地の板碑は昭和初期に集められたもの。
イメージ 4
鎌倉時代末期から南北朝時代に造立されたと考えられており、年号のあるものは十四世紀初頭のものが多いです。
イメージ 6
イメージ 7
イメージ 8
石材は石英安山岩。
イメージ 9
イメージ 10
イメージ 11
イメージ 13
五輪塔は本殿の裏にあったもの。乳井城主の墓塔と伝えられていますが年代が符合せず、五輪塔の年代はその規模や文献史料・板碑の存在から推定すると津軽地方には少ない鎌倉時代の制作と考えられます。
菅井真澄が乳井方面に行く途中、「高畑、枝村をすぎて、左方に糠塚があるが、むかしは蝦夷が住んでいた跡であろうか。道のかたわらに古びた五輪塔の形をした石の卒塔婆があるが、文字ははっきり見えなかった。誰の墓であろうか。」と記していますが、もしかしたらこの五輪塔でしょうか。元々から本殿裏手なら違うかな…。
イメージ 5
乳井神社の脇道を登れば茶臼館城址、逆に本殿の裏山を登って行けば乳井古館城跡に行けます。それについてはまたいずれ…。
イメージ 35
2016年再訪記事:『乳井神社 (弘前市)