和徳城。平城。
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弘和年間(1381~84)、安東氏の一族である安倍氏が築いた言われています。
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南部氏が攻めてきた文安2年(1445)、清原氏の流れを汲むとも言われる配下、小山内氏の内通によって城は落城。以後、小山内氏は南部氏に従い和徳城の城主となります。
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天文12(1543)年、大浦政信が和徳城主小山内永春と戦って討死にしています。しかし、元亀2年(1571)近隣の石川城が大浦為信の奇襲よって落とされると、それに勢いづいた大浦勢が森岡信元約250人、小笠原信清約150人、為信本隊約500人で三方から攻め寄せました。
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小山内讃岐守は、一族譜代と共に約50人で出撃し、十二矢又五郎に討たれ、和徳城の城兵約140人と出撃した部隊は一人残らず討ち死にし和徳城は落城。讃岐守の墓は田町4丁目にあります。
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その後、和徳城は為信によって配下の森岡信元に与えられました。
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一本口(現代官町付近)から攻撃した森岡信元はその功績により他にも津軽野(現津賀野)から境関、小比内、福村、大和沢、小沢、清水森、小栗山等を得ました。
なお、和徳城は自然に廃城となったものと考えられています。
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和徳城はこの付近の河川の湾曲を見れば、和徳町野田の市立和徳幼稚園~総合保健センター付近、もしくは羽州街道でもう少し堅田郵便局寄りだとは思いますが真相はわかりませんでした。
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一般には和徳神社(御祭神は宇賀之御魂命・猿田彦太神・大宮能売神)、又は和徳坂の辺と言われていますが、やはり真相はわからず、現在では和徳神社が和徳城の中心部ということになっています。和徳稲荷は創建不詳、坂上田村麻呂と小山内伊賀が再興、元和年間(1615-1624)に二代藩主信枚が再興。
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ちなみに菅江真澄は「和徳の町にはいった。この稲荷の祠のかたわらに、この地のむかしの主君であった讃岐守(和徳氏)の古い塚があるが、いまは雪にうずもれてみられなかった。」と記しています。
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境内でおもしろいものを見つけました。
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和徳城には大浦為信に攻め込まれた和徳城の兵士が落城前に食べた、又は大浦為信側の野戦食ものが「けの汁」の起源という説が残っています。
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【和徳町】
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元禄9年(1696年)の家臣の城外移転に伴い、和徳村の一部が転移して作られました。藩政時代末期には和徳桝形も設けられ、青森に至る街道筋であったため、商家の町並みも形成されてにぎわいを見せました。