辻坂より吉野町へ下りて正面に見える鎮守の森。

住吉町は江戸時代の弘前城下の一町。1708年(宝永5年)4代藩主信政の代に富田村領に住吉大明神社地(普光院)が置かれ、それに由来し住吉町になりました。主に下級武士が居住。

かつて住吉神社で御祭神が表筒男命・中筒男命・底筒男命。現在は護穀神社となり御祭神は宇賀魂命ってことでいいのでしょうか。相殿には松尾神社、稲荷神社。延享2年(1745)7代藩主信寧が堂塔を建立。住吉神社の社殿は残されておらず、残っているのは町名だけです。

ちなみに国誌によりますと、神社は護穀神社(御祭神は保食神、寛延3年勧請。社号標明治40年4月高山文堂筆)で、相殿として住吉神(享保2年勧請)、倉稲魂神(文久年中配祀)とあり、住吉神については護穀神相殿の配祀となったそうです。弘前市の年表には寛延3年住吉宮の境内に護国神社の神殿を造営とあります。



左手に並んで稲荷神社、松尾神社が置かれています。あぁ…何か経緯が複雑(笑)…南から護穀神社、松尾神社、宣命稲荷神社です。宣命稲荷は楮町の山村伊勢の屋敷神であったものを延享元年に住吉社地へ移したもの。社前に楮の木を残します。


青森県神社庁には護穀神社として次のように載っています。
「津軽五郡の五穀成就の守護神として、寛延3年津軽信著公の建立せられたる神社にして、藩主崇敬特に篤く豊作の吉例として、京都吉田家より天子の御緒太並に御田扇を宝物として賜り年々五穀成就の御祈願は勿論、藩主直々日々遥拝なさる思召に依り、城中玄関先より出来得るように当神社本殿を西北方に向け建立をせられたるものにして、現在の本殿の位置は即ち創建のまま在置せるものなり。明治維新前は旧暦4月14~15日の大祭には津軽藩内みな仕事を休み重き祭日として年中行事の1つとせり。明治6年4月村社に列せられ土地改正に当り神域1000坪に限定せられたるも、明治44年6月国有林1反回畝5歩を境内に編入許可をうけ、昭和21年本庁設立と共に宗教法人令に基き宗教法人として現在に及ぶ。」


松尾神社は領内の造酒・醸造の神として享保4年に建立(※延享3年に住吉神社の神主山村伊勢が松尾大社に詣でて小祠をつくり、安永年間に護穀神社に合祀し、明治34年に酒造家が出資して再建というのが正しいと思います)。

醸造の神にあやかって福島醸造ができたのかな。

先ほどの地図…町割りが今と違うんですが、辻坂を下って現在の踏み切りを越えた辺りに鳥居が描かれているんですね。

享保6年の町割図では南川端町から黄昏橋を渡って住吉神社に至る道を「住吉道」と記しています。

なお寛政年間の資料によれば住吉神社の地続きに普光寺跡とあり、寛文13年弘前中惣屋敷絵図には「行人五智如来堂」があります。「五智山 普光寺」は現在の保健所の場所。住職がなくなり廃墟となり、弘化3年(1846)5月に五智如来堂と共に最勝院に遷されました。堂の中には普光寺の本尊五像が安置されています。


夏には銀座街のねぷた囃子が練習しており、それもまたいい趣を感じさせます。

三神功徳之碑。碑文は「弘前府城東東南二里許有邨落曰富田…」に始まります(434字)。狩谷えき斉(1775-1835・考証学者)を御存知でしょうか。青森市の大星神社の花崗岩の鳥居(文化6年に江戸で造り、青森へ廻漕)などを建立している人物です。狩谷氏は津軽屋の屋号で本郷湯島に米穀商を営み、古くから代々津軽家江戸藩邸に出入りした御用達。津軽と因縁浅からぬ狩谷氏では宝暦5年(1755)七代広保が富田住吉神社境内に碑を建立しています。これがこの三神功徳之碑です。蔵元狩谷氏は二千五百石有餘の藩米による利益を三神に感謝して建立しました。戸澤惟顕(宝永7年~安永2年。通称半左衛門。寛延3年に7代藩主信寧に召抱えられた江戸の儒学者)が撰文し、江戸の書家関思恭(明和2年69歳没。通称源内。鳳岡・泰黙斎を号としました)が筆を取り、狩谷広保建立(宝暦5年3月初吉の年紀があるも、裏面左隅に天明8年8月の年刻あり、下記の通り工藤白龍が補修したものと思われます。漆の痕跡は見えず。)。※練屋藤兵衛こと工藤常政(白龍。文化3年没)の津軽俗説選後拾遺(寛政9年)では、天明8年8月に狩谷保古の手代西脇儀兵衛が「三十四年の星霜を経て苔蒸した石面に漆を入れて字面を新たにして関思恭の筆体を失った」と記しています(狩谷棭斎研究家梅谷良夫は天明8年に広保の遺志をついで保古の手代西脇儀兵衛が建立したとしています)。狩谷広保(字定夫)は、湯島一丁目の米問屋刈谷三平が正徳元年から藩の蔵元を勤めた津軽屋の七代目であり、保古は八代目。考証学で有名な津軽屋三右衛門棭斎は、安永4年12月朔日に神田明神下の分家高橋家に生まれ、寛政11年12月21日に八代保古の後妻つねの娘よしの婿養子となって十二代津軽屋を嗣いだ望之。

これによれば三神はやはり住吉神、稲荷神、護穀神と彫られていました。

境内(護穀神社南)にひっそりとある猿田彦大神(文政5年4月16日銘)。


三猿が彫られています。
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