津軽平野南東隅の微高地に築かれた平城で、西から東側に主郭、二の郭、三の郭を連郭式に連ねたシンプルな構造。規模は東西90m×南北150mで周囲には堀があったと推測されていますが詳細は不明。
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永禄年間(1558~1570年)中期、大光寺城主滝本播磨重行が敵対する乳井福王寺の抑えとして築かれ、家臣平岡惣右衛門盛影を配しました。
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永禄8(1565)年6月、福王寺別当の乳井覚恩坊玄蕃を暗殺した滝本重行は、更に玄蕃の子覚林坊大隅守建清を圧迫し乳井領を侵食。しかし元亀2(1571)年5月、大浦(津軽)為信が南部氏の津軽郡代石川高信を急襲して石川城・和徳城を攻略すると、建清はこれに呼応して高畑城を急襲して属城にすると、ほどなく大浦氏の支配下に入ります。
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同年8月、南部氏は瀬田石隠岐守を津軽に派遣し高畑城を攻撃しましたが、建清は大浦氏の援軍を得て南部勢を撃退。天正3(1575)年11月、大浦為信が大光寺城攻略に動くと建清はこれに従軍し滝本重行を津軽から駆逐しました。同7(1579)年7月、滝本重行、北畠顕則が旧領奪還のため津軽に侵攻すると、高畑城は乳井城・乳井古館・乳井茶臼館ともに滝本勢の攻撃を受けて陥落。
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しかし六羽川の戦で滝本勢は大浦勢に敗北を喫し、比内に撤退を余儀なくされ、高畑城はほどなく乳井氏に戻されたと考えられています。その後の高畑城の消息は不明ですが、建清が大光寺城主となった天正10(1582)年頃には廃城になったと思われます。
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筆塚がありました。
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高畑村の産土神として熊沢の毘沙門天堂があります。毘沙門天堂は高畑城主平岡惣右衛門盛影の勧請で、天正年間より氏子が運営。その後神仏分離の際に神明宮と改められました。明治6年には薬師堂村の熊沢神社の相殿に遷されましたが、明治末期に復社。
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神明宮境内も恐らく郭祉、境内の西には用水路、北方の神明宮裏手に堀跡が僅かに面影を残すのみです。
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2016年再訪記事→『神明宮 (平川市高畑熊沢)
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