弘前の新寺町にあります稲荷神社。新寺町寺院街の袋宮寺の北、北側を寺沢川が東流。北新寺町はかつて同社の境内地。祭神は宇賀魂命、猿田彦神、大宮能売神。旧村社。
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津軽一統志によりますと稲荷大明神とあり、別当は浄土宗白狐寺(廃寺)、宝永5年(1708)10月22日4代藩主津軽信政の造営。信政公が和徳稲荷を信仰していたことは明暦の大火後の国元での代参、入部後の自らの社参、津梁院内への建立から明らかですが、熊谷稲荷と白狐寺建立は個人的信仰より、浅草における流行を見てのものと考えられます。津軽俗説選によりますと、白狐寺の稲荷神社に狐の形の石が2つあり、子供が軽くなれといって抱上げれば軽く上がり、重くなれといって引上げれば重く上がると記しています。
弘藩明治一統誌によれば4代信政が在府の折、武蔵国の仏体の稲荷が霊夢に現れ、信政は病気に。そのため宝永5年現在地へ堂社を建て尊像を移し、貞昌寺の良仙を別当職に任じ、別当寺として伊吹山白狐寺を建立し、社禄三石六斗を寄付。
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明治3年(1870)神仏分離令により、仏体は貞昌寺へ。白狐寺は廃し稲荷神社とし、品川町の胸肩神社の社人山辺稲尾に社務を祠掌させました。翌4年社禄は引上げられ、同6年村社に。末社の水神社は美都波能売神を祀りますが、天保8年(1837)館岡村(木造町)の田光沼から目の下六尺三寸の大鯉があがり、10代藩主信順がこれを神に祀ったのが同社の開基といいます。新撰陸奥国誌では同社は相殿とあり、末社には12の稲荷神社と猿田彦神。
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※白狐寺跡…新寺町の稲荷神社の別当寺で現在は廃寺。異吹山真月院と号し、天台宗、熊谷安左衛門(浅草・狐を巧みに操った行者)の勧請。白狐寺が訛って「バイコウジの稲荷様」と呼ばれていました。宝永4年(1707)正月に貞昌寺隠居入誉の願いにより、熊谷稲荷神が貞昌寺内の稲荷堂に安置。宝永5年に4代藩主津軽信政が新規に熊谷稲荷本社を建立し、御供米九石を寄付。津軽一統志によれば当寺を浄土宗、本社の稲荷大明神を宝永5年の造営とします。享和3年(1803)寺社領分限帳によりますと、明和2年(1765)本社稲荷宮の修復とあり、また天明8年(1788)より稲荷宮において、正月・五月・九月祈祷執行のうえ守札を藩主へ差上げるよう命ぜられています。文化3年(1806)の新製弘前分間総図には稲荷宮とともに当寺がみえます。葛西彦六日記によりますと、文化9年当寺において富籤興行がありました。明治時代初期の神仏分離令にて稲荷神社の別当職を免ぜられ廃寺。現在の稲荷神社横にある児童館の場所が別当白狐寺跡になります。児童館の西、道路を隔てた辺りに白狐寺歴代の墓石がありましたが、現在は貞昌寺に移されています。
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現在でも白狐稲荷と呼ばれているんですね。
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参道が細くて、正面から見ると気付きにくいのですが…
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こちらも鳥居が…
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以前紹介した高山稲荷神社の比ではないですけどね。
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境内には廃稲荷様も所々に。
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境内には建立当時のものと言われるイチイや市内最大級のケヤキなど多くの古木が保存されています。
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こちらの地図でもわかるように稲荷神社のすぐ裏手は昔の南溜池です。
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稲荷神社の横を境内に沿って右へと湾曲しながら裏手の稲荷橋へと下っていく坂。
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勾配としては平行する加藤坂よりも緩やかです。
加藤坂
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下る際、右手は稲荷神社の石垣等、左手は民家。
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古い坂道というわけではありませんが、横が稲荷神社の所為か独特の空気感を感じますね。あえて名付けるならばかつて坂上にあった白狐寺にちなみ、白狐寺坂でしょう。
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弘前市街地としては最大級のケヤキの所為でしょうか。
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実際に見ると相当大きいですよ。
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昭和10年でも未だ地図には存在していない坂道ですね。
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境内から稲荷橋を望む。大学病院、弘大医学部方面へは対となり、橋を過ぎると再び上り坂です。
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稲荷橋から境内を望む。